Burning Blue Heaven

僕が彼女と最後に会ったとき、僕は彼女の部屋を訪れていた。
写真を撮ることが趣味だったから、部屋のあちこちに彼女の写真が貼られていた。
引き伸ばして額に飾られたもの、コルクボードにピン刺しのもの。
住んでいるすぐ近くを撮った何気ない一枚。
海外に旅行したときに撮影した壮大で大胆な景色。
僕がこの部屋で時間を過ごすようになった初めの頃は
ゆっくりと時間をかけて一枚一枚眺めたものだった。


「あげる」と言って彼女は写真の束を僕に差し出した。
見なくても分かる。僕が写っているものだ。
「ああ」とだけ答えて僕はそれらの写真をカーゴパンツの大きなポケットの中にしまった。
感触から、様々なサイズの写真が含まれていることが分かった。
僕はポケットの中に指を突っ込んだままにして、何枚か触ってみた。
ポラロイド写真が何枚か、一回り大き目の変形サイズの写真も何枚か混ざっている。
どの写真に何が写っているか、大体のところ見当がつく。
僕がどんな場所にいてどんな表情を浮かべているか。
一番端にあった写真はピンの穴が開いていた。
それとなく見回すと、僕の写っていた写真が貼られていた箇所は
どれもみな別な写真で取って代わられていた。


無造作に写真を手渡した後で彼女はキッチンに消えた。
コーヒーを淹れる音が聞こえた。
「飲む?」「ありがとう」
中ぐらいの大きさの額が壁に掛けられているのが目に留まった。
去年の夏、海に出掛けたときに撮った写真が連作となって重なり合っている。
人気の無い海辺。その風景だけを彼女は撮り続けた。
そこには僕の姿も、彼女の姿も無い。
濡れた砂のクローズアップ。
灰色の空に静止する小さな鳥たちの群れ。
打ち寄せられた木々が絡み合っている。
波間に浮かぶ小さな白い泡が溶けて消えていく。


僕と彼女は車に乗って出掛けた。
昼遅くに出発して、日没の風景を眺めるつもりだった。
だけどこの日は曇りだった。
「ま、しょうがないね」とお互い言い合った。
彼女は落胆することも無く写真をたくさん撮った。
立ち止まって、しゃがみこんで。
彼女はスッと息を止めてシャッターを押した。


浜辺を歩きながら、たわいのないことを話した。
話しながら、僕はいつの日か彼女と並んで見つめることになる
壮大で美しい景色のことを考えた。
夕暮。言葉の通じない国。
それがアジアなのか地中海なのかはわからない。
とにかく僕と彼女はそこに手を握りながら立ってとても大事なことを、
人としてとても大切なことを言葉として語り、そして聞くだろう。
目の前に果てしなく広がる川面。
陰りを帯びた黄金の夕陽がゆっくりゆっくりとその中に溶けていって、
この世界を、その全てを、優しく包み込む。
僕らはその光に照らされて同じように溶けていって、一つになる。
何もかもがオレンジ色に染まって、線で描かれた輪郭だけとなる。
それは永遠の一瞬として切り取られ、
いつまでも僕の心の中で、そして彼女の中で灯され続けるだろう。


「なに考えてるの?」
彼女が笑ってた。
夕陽のこと、とは言わない。
その代わりに、「またいつかここに来ようよ」と僕は言う。
「夕暮れを撮りに。きれいな、きれいな、夕暮れを」
「うん」と彼女は答える。
僕は彼女の手を握った。
僕らは車へと戻った。


そこから先はよくある話。
僕と彼女がこの海をもう一度訪れるということはなかった。


コーヒーの入ったマグカップを手に、彼女が戻ってくる。「はい」
僕は受け取る。熱い湯気の立ったコーヒーを口元に運ぶ。
マグカップをテーブルの上に置いて、僕はソファーに沈み込む。
「海」
「え?」
僕は壁に掛けられた写真を指差す。
「行かなかった」
「そうね」と彼女は言う。


僕も彼女も何も言わなくなって、ただ黙ってコーヒーを飲んだ。
飲み終えて僕はマグカップを置いた。
「じゃあ、行くから」
僕は立ち上がる。
「さよなら」と彼女が呟く。
僕は振り返ることなく、心の中でだけ、囁いた。
「さよなら」
そしてもう一度、今度は声に出して言った。
「さよなら」