時間旅行(3)

そこは寂れきった観光地だった。
崖の下にいくつか家のようなものがあって、船着場から1つしかない船が出ていた。
この時代には「遊覧船」と呼ぶのか。
10人も乗ればいっぱいになるような小さなボート。
操縦室と狭い船室とがあって、船室の床にはガラスが嵌め込まれ、海の底を眺めることができた。
一度だけ乗せてもらったとき、緑色っぽい水の向こうに様々な色の岩が見えた。
船は午前と午後に2回ずつ決まった時間に小さな桟橋を離れて、30分後戻ってくる。
この国のどこかからこの地を訪れた人たちが客となってこの船に乗り込む。
客がいなかったら船は走り出さない。
平日の午前中はそうなることがしばしばだった。
そんなとき「船長」は温めていたエンジンを切って、
怒ったような顔つきで桟橋を渡り家の方にやってくる。
荷物を運んでいる僕を見かけるといきなり笑い出して、時々僕の肩をボンボンと叩く。
家は海に面した部分に壁が無く、この時代ではなんていえば言いのだろう?
「物売り」のために部屋が利用されていた。
どこからか訪れる観光客が手に取って眺めて、低い確率で購入していく。
奇妙な衣服を身にまとった小さな女の子をかたどった人形。
「ハガキ」と呼ばれる四角い厚紙の片面にきれいな写真を印刷したもの。
薄手の箱の中に入った食べ物。


ここでの僕の立場はこういうことになっていた。
記憶喪失の青年。口はきけるが言葉を多少忘れている。
基本的な生活習慣のいくつかも失われている。
連れて行かれた初日に一通り周りの説明をゆっくりとした口調で、
かつひどい「方言」でなされた後、
その日から僕は昼間の時間をそこで過ごすことになった。
身の回りの世話をしてくれるいつもの女性は先に帰って、
初日の僕は車でそこの家の人たちに送ってもらったのであるが、
次の日からは自分一人で片道1時間かけて行きも帰りもその崖の下まで通うことになった。


雑用全般。
崖の上まで重い木箱を運んだり、入れ替わりに崖の下までダンボールの箱を運んだり。
掃除をする年老いた女性を手伝ったり、時々訪れる男性がドアや看板を直していくのを手伝ったり。
バスに乗ってきた観光客の団体は決まってここで記念撮影をすることになっていて、
しばらく時間を過ごした後で見晴らしのいい場所に集合して前後2列になって、
場合によっては専門のカメラマンが、場合によっては「添乗員」が、その観光客たちを撮影する。
僕はその後ろ側の列の人が立つための台を運ぶ。
木材でできていて、潮風にさらされているせいか表面は古びている。
しかし台そのものはしっかりしている。
家の物陰に普段は積んでおいて、タイミングを見計らって無言で運んでいく。
どの旅行会社がどの団体客を運んできても撮影する場所は一緒のようで、
慣れてくると僕は指示されなくても決まりきった場所に運ぶようになった。


団体客がいつも異なるようにカメラマンや添乗員もいつも違う人が来るのだが、
この区域を専門にしているのか、定期的に同じ人が来ていることも時としてあるということがわかった。
週に1度日曜の朝、非常に大人数の団体客が女性の添乗員の持つ小さな旗に導かれてここを訪れる。
添乗員は月に1度か2度必ずある特定の人が担当して、
カメラマンもまた月に1度か2度また別のある特定の人が担当していた。
不規則なローテーションのようなものがあるみたいで、
何度か顔を合わせるうちにそのうちの何人かは僕に話し掛けるようになり、
そのうちの何人かは顔を合わせるたびに5分ぐらいの短い時間、世間話をするようになった。
決まって20代ぐらいの若い人たちだった。
同世代の若い人がここにはあまりいないせいなのだと思う。
(団体客のほとんどが年配の人たちだった)


僕はその短い時間の間に、
それとなく「東京」と呼ばれるこの時代のこの国の首都について情報を得るようにした。
どれだけ人がいて、どんな建物が建っていて、どれだけ科学技術が発展しているか。
ある人は「そんなに興味があるんだったら、バスに乗せてやるからついてきなよ」と言った。
チャンスが回ってきたと喜び、団体客が崖の下を後にする時にくっついていこうとしたら
その人に「ハハハ、冗談だよ」と遮られた。
「そんなことしたら会社から怒られるからさ」
僕は砂浜の上に立って、山の斜面に作られた階段を上っていく人たちが
木々の間を小さくなっていくのを眺めた。
夜になってその日の仕事が終わると、家に帰るために一人道路を歩いた。
テレビをつけるといつも、その向こうには東京の映像が映っていた。