物々交換

もしも貨幣というものが発達しなかったらこの世はどうなっていただろうか。


労働の成果を数で数える → (中略) → 緻密で抽象的な経済理論


というような発展の図式を迎えることがないため、
文明そのものもあんまり発展しないのではないかと思われる。


事物に名前を与える → (中略) → 高度な概念化を用いて思考を行う
相手に石をぶつける → (中略) → 戦う相手のより正確な情報を押さえている方が勝ち


というようなことと一緒。
つまり具体的な事物を離れて、抽象化へと向かうことによって
文明は飛躍的な発展を遂げる。


しかし抽象化が満遍なく行き渡っていると目に見えないものを日々扱うってことになるし、
それってどこかの誰かが決めた揺るぎやすい価値観に基づいて
様々な行為を行うってことになるので何かとひずみが生じやすい。
金を貸した貸さないで殺傷事件は発生するし、貧しき人々は貧しいままあっさりと死んでしまう。


そんなわけで、例えば貨幣について言えば人は時として
物々交換のままだったらどうなっていただろうかと考える。
ある種の楽園、ユートピア
雨が降ったら小屋で本でも読んで、晴れてたら畑を耕すような、
そんな南の島を僕は今思い浮かべている。
で、取れたものを隣の人の持っていた何かと交換する。
(そんな島があるかどうかはわからない。でも、この世界のどこかに1つぐらいあるといいなと思う)


何も持っていなかったら食べるものに困るかというとそんなでもなく。
「おら、なんももってねえから1日ここで働かしてくんねえか」(なぜか話し方も素朴になる)
「おお、わかった。じゃあその荷車を海辺の村まで運んでくれ。帰ってきたら晩飯たらふく食わしてやる」
こんな感じに物事が進んでいく社会。
牧歌的過ぎるかな。


黒澤明の「七人の侍」の中で、野武士に襲われて困窮している村に侍を雇おうとした
村の長が道端で捕まえた侍たちに向かってこんなようなことを言う。
「雇ったところでお礼のお金は出せない。だけど白い飯だけはたらふく食わしてやる」
野武士たちと生死を賭けて激しく戦ったところで侍たちが得る現実的な報酬はない。
それでも侍たちは「よしわかった」と農民たちのために立ち上がるのである。


まあ要するに「世の中金じゃない」ってかっこよく言えればいいんだけどね。

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貨幣というものが存在しなければ恐らく地球上の様々な国はそれほど発展しなかったはず。
だけどもし、物々交換のまま高度な社会が成り立っていたとしたら。
どんなふうになるだろうか?


昨日仕事の合間に(というか仕事しながら頭の中では)ずっとこのことを考えていた。
考えているうちにいつのまにか難しいことは手に負えなくなってきて、
「じゃあ何も持ってなくてなおかつものぐさな人はどうやって物を手に入れるんだ?」
ということに興味が移り変わっていった。


例えばこんな社会。


「交換するものがなければ歌や踊りを披露することによって、その優劣に応じて品物を獲得する」


未開の部族のいくつかでは歌や踊りを通じて意志の疎通を行ったり、議論を戦わせたりする姿が発見されている。
それが西洋や東洋の大部分の地域で21世紀まで保たれたと思ってほしい。
そこでは極度に洗練され、緻密で芳醇な歌と踊りが日夜繰り広げられる。


♪あー、ぼーくーはー、このージャケットがー、ほーーーしいんんんだあぁぁぁー
(適当なメロディーを当てはめてください)


ぐらいじゃ全然ダメ。
もっと激しく、もっと悩ましく。もっと大胆に。でないと店員にそっぽ向かれる。


場合によっては家族総出で寸劇。
朝シナリオを書いて昼みんなで稽古をして。それでようやく夜の肉や魚にありつける。
(僕の頭の中では今サザエさん一家が必死になって一糸乱れず練習しているイメージが鮮明に焼きついて離れない)


小学校の体育館では日夜基本的な振り付けが練習されている。
中学では簡単な値引き交渉もできるようになる。


そんなような社会だとしたら。


あほらしいといえばあほらしいんだけど、
今の社会よりは断然熱意が報われやすいと思うと無下に否定はできない。