「シラノ・ド・ベルジュラック」

クリス君を介して知り合ったミキさんの旦那は静岡にて
県の職員(?)として演劇をやっているらしい。
静岡県舞台芸術センター」という団体に所属しているようで、
ホームページを見てみると、人材の育成(演出家・俳優・照明 etc.)、
世界の優れた舞台芸術家の招聘や作品の上演、
独自作品の作成と上演、演劇を通した地域との文化交流、
などなど幅広く活動を行っているようだ。
これが完全に静岡県独自のシステムとして行われているようなのでたいしたものだ。
第3セクターでやっているのではなくて、自治体の一機関として運営。
劇場も野外のもの、ホールのもの、自分たちで持っている。
静岡といえばお茶とサッカーぐらいしか思い浮かばない僕からすれば
失礼な話を承知で言うが、「意外」です。なぜ静岡?
文化的な活動に関する意識が高く、
かつ具体的なヴィジョンを実現化するための行動力のある人たちが多かったということか。
設立はある意味勢いでできてしまうことなんだろうけど、
それを継続していくということ、
質の高いものを作り続けていって後進の人材も育てているというのは立派としか言いようがない。
ホームページを見る限りは演劇界の1つの理想郷のように思えるのだが、実際はどうなのだろう?
(稽古風景を見ている限りではさすがにお役所的体質ではなさそう)


NHK教育の「芸術劇場」という番組にて
シラノ・ド・ベルジュラック」の公演が放送され、
クリス君が録画したというので借りて見てみた。


最初に演出家鈴木忠志に関する解説の部分がある。
自身の演劇観を語り、稽古の様子、とくに「鈴木メソッド」についての紹介が成される。
テープのリズムに合わせて(時には鈴木忠志自ら床を竹刀で叩いてリズムを作って)
足腰を鍛える?のがメインのような訓練を汗だくになって行う。
世界のどこの地域に行ってどこの民族に対して披露しても伝わるような
演劇の普遍的な文法というものがあるはずで、その習得のためなのだという。
難解な演劇が予想されたため、僕はメモを取りながらこの解説を聞いた。
演出家たるものはよりよい未来のために演劇を創造するものであり、
現代社会に対して疑問を持つための手段として演劇というものがある、
そんなようなことを言っていた。
脚本があってそれを舞台に乗せるというだけじゃダメで、
そこには何かしらの演出家による意思(極端に言えば「思想」)がなくてはならない。
当たり前といっては当たり前なんだけど、今更ながら「そういうものか」と思う。


見始める。
そもそも「シラノ・ド・ベルジュラック」とは?
17世紀のフランス。
詩人にして軍人であるシラノは従妹のロクサーヌにほのかな想いを寄せるのであるが、
いかんせん彼は美男子とは言いがたい。特に鼻の大きさが致命的。
一方、ロクサーヌは美貌の青年クリスチャンを恋い慕っている。
シラノは文才のないクリスチャンの替わりに影武者としてせっせと恋文の代筆をする。
晴れて2人は結ばれるのであるが、
やがてクリスチャンはロクサーヌが心を奪われたのは彼自身ではなく
シラノが代筆した恋文だったということを知る。
失意のクリスチャンは戦場に赴いて死亡。
さらにそれを知ったロクサーヌは尼寺へ。
15年後、ロクサーヌの元を訪れたシラノ。
クリスチャンが書いたはずの恋文をシラノがそらんじるのを見て、
ロクサーヌはあれらの恋文はシラノが書いたものだったのか、ということを知る。


昔何かで読んだ粗筋を思い出し、
舞台の内容から判読できたものを当てはめていった限りではこんな感じ。


無茶苦茶難解。
正直よくわからんかった。
なぜ彼らはいきなり音楽にあわせて踊りだすのだろう?
そもそもの設定として
シラノ役の俳優は「シラノ・ド・ベルジュラック」を執筆している
日本人の物書き「喬三」(「鏡像」の語呂合わせ?)も同時に演じていて、
全ては「喬三」の妄想なのではないかという構造になっている。
これが意図しているものってのがまず僕にはちんぷんかんぷん。
描かれる場所はフランスではなくて、日本。
(だけど時代は江戸なのか明治初期なのか判別できず)
わからないことばかり。
「シラノ・・・」の筋を知らないとどのように「外していったか」を楽しめない?
現代演劇に通じていないと楽しめない?


一番気になったのは
ロクサーヌだけが日本人ではなく、ロシア語を話すというところ。
(しかもフランス語ではなく)
テレビでは字幕がついていたんだけど劇場ではどうなっていたんだろう?
ロシア語がわからなくても物語は理解できるようになっていたのだろうか?
舞台の上にロクサーヌ役の女性が立って演技をしている、
だけど彼女の話している内容は日本人にはわからず、
表情や身振りや声の調子、あるいは周りの役者たちの日本語による受け答えから
「伝えたいこと」を推し量るしかない。
ベタな話だけどなんらかの「ディスコミュニケーション」を
演劇上の手段/目的としたかったのだろうか。
(ロシア語に堪能な人がこの演劇を見たら、どのように感じられるのだろう?)


「喬三」の頭の中で広がっている「シラノ・・・」の物語を現実に動かすとなると
ロケーションが日本で、出てくる人物が日本人なのはなんとなく「わかる」のであるが、
なぜ彼女だけ?
日本人の中にある/中にあったヨーロッパ文化への憧れの象徴?


演出家が標榜すべき「よりよい未来」とどういうつながりがあるのだろう?
どこかがつながっていたのだろうか?
僕にはわからなかった・・・。


とはいえ、役者たちは汗だくで演技していて、
わかるわからないに関わらず演出家の意図しているものは揺ぎ無くて、
両者共に力が漲っている。
テレビで見るのではなく、実際に静岡の劇場で見たのなら
「なんかよくわからんがすごかった!」と感動したんじゃないかな。
やっぱ演劇は生で見ないとなー。