歌姫

歌姫が僕の町に来ることになったときのことを僕は今でもよく覚えている。
広場の掲示板にその当時では珍しかった(白黒ではなく)カラーのポスターが貼り出され、
僕らは鞄を放り投げて群がった。目いっぱい背伸びして細かな字の1つ1つまで声に出して読んだ。


きれいな女の人が映っていた。
ヒラヒラとした衣装を着て、両腕を前に差し出すようにして歌っていた。
誰かを抱きしめるときのように。今思えばそういう仕草だった・・・。


その日のうちからいろんなことを噂しあった。
子供の言うことだからかなりたわいのないことを。
隣町の誰それのいとこが恋人でどうのこうの。
大きな家に住んでいて100mのプールがあってどうのこうの。
大統領のお気に入りで毎晩歌をどうのこうの。
僕らは学校を飛び出すと丘の上まで走っていって、
いつものようにあちこちの工場から吐き出される煙の柱の数を数えた。
今日は7つだから僕の勝ちだ。今日の賞品はなんだ?
おまえその写真よこせよ。やだよ。誰からもらったんだ?
姉ちゃんから。わーきれいな人だなあ。
なあ、煙草吸ってみないか。兄ちゃんの机の中から持ってきた。
おまえすげー。1本ずつな。兄ちゃんにばれるから。
・・・なあ、あの人も吸うのかな。
喉が大事だから吸わないんだよ。なんたってこの国で一番歌がうまいんだからな。
おまえんち入場券もらったか?


その当時僕らの父親はみんな工場で働いていた。
朝早くから夜遅くまで、機械はゴトゴトと大きな音を立てて1日中動いていた。
毎日汗まみれになって帰ってきて、僕らもまた大きくなったら工場で働くのだと思っていた。
家が小さな店を持ってたらそれを受け継いで、
頭がよかったもう少し長く学校にいて役所に入る。
その頃の僕らはこの島の向こうに他の国があるのだということを教えられることはなかった。
大人のフリをして聞いてみたラジオや読んでみた新聞でもそんなことは言ってなかった。
この島が世界の全てだった。この星の全てだった・・・。
娯楽は一方的に与えられるものであって、選択の余地はなかった。
僕らは他に知らないから、それはそれで十分に楽しかった。

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・・・2週間をソワソワした気持ちで過ごして、
待ちに待った日曜の夜、父と母と一緒に公会堂へと出かけた。
父は珍しく作業着じゃなくパリッとした黒いスーツを着ていて、
僕も父とお揃いのような上着にズボンをはかされた。
たくさんの人たちが集まっていた。
椅子に座ってみんな落ち着かなく騒いでいた。
物売りが大きな声を張り上げて飲み物と食べ物を両手に高く掲げる。
僕が「あれ食べたい」と母に言っても、
母は家からパンを持ってきたからと取り合ってくれない。
僕は母親が袋の中から取り出したボソボソとしたパンを食べた。
珍しく中にはジャムが入っていた。


時間が来ると明かりが後方から一列ずつ消え始め、辺りがシンと静まり返る。
舞台の上には市長が現れ希望や発展について長々と話し始めた。
僕は退屈そうにモジモジする。父はそんな僕の肩に腕を回した。
丘の上で見た写真を思い出す。僕はその中に入っていく。
歌姫が僕にその手を差し出し、僕らは一緒になって歌を歌う・・・。


・・・盛大な拍手が巻き起こって僕ははっと我に返った。
歌姫が舞台の真ん中までゆっくりと歩いてきて、深々とお辞儀をした。
最初はピアノの伴奏もなく1人で歌いだした。
大きなよく通る声がマイクを通して公会堂を包み込んだ。
僕らが音楽の時間に習う歌を歌姫はレコードのように正確に歌った。


夢のような時間が流れた・・・。
最後にはみんな立ち上がり、拍手をして歓声を上げた。合唱になった。
舞台の上にはアコーディオン、ヴァイオリン、クラリネットと様々な楽器の演奏者が並んでいた。
大道芸人がその芸を披露する一幕もあった。
歌姫は曲名を口にしてそれを歌う以外には舞台の上から言葉を発することはなく、
また深々とお辞儀をすると僕らの前から消えていった・・・。


帰り道興奮した僕は父の手を離れ走り出した。
途中で友達に会うと2人で大きな声で歌いだした。
やがてそれは他の大人たちも巻き込んで、僕らはみんなで輪になって歌を歌った。

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革命の後、大勢の人間が粛清された。
恐らく「歌姫」もまた牢獄に入れられるか、処刑されたのだと思う。
あの政府に関わっていた者は性別や年齢に関係なく処罰の対象になった。
地下に逃れるか、刑を受け入れるか。


・・・革命に至るまでの数年間僕らの暮らしもどんどんひどくなっていった。
僕の住んでいた町に娯楽として与えられた出来事はあの歌姫が最後だった。
その後何年も広場の掲示板にはあのときのポスターが貼られていた。
色あせて端の方が破れたポスターの中で歌姫が両手を前に差し出していた。


僕は思春期の後半に差し掛かるまで歌姫のことを思い続けていた。
あの日彼女が歌いながら浮かべていた表情。
喜びの歌のときには喜びを伝えようとし、
悲しみの歌の時には悲しみを伝えようとしていた・・・。
僕の中でその意味がわかるたびに想い焦がれる気持ちは強まっていった。


・・・10代も後半となると身近にいる女の子を想い焦がれる方が現実的でよかった。
具体的な行動に出ることも可能だった。
いくら事態が厳しくなっているとはいえ、手を握ってキスをするぐらいのことはできた。
どこにも行くことはできなくて食べるものが手に入らなかったとしても、
同じような境遇の女の子たちはたくさんいた。
男の子も女の子も物陰を見つけては2人きりになった。
もう少しで何もかもが終わってしまうのだという漠然とした不安の中で
僕らはぎこちない時間を過ごした。


その頃には僕も歌姫はたった1人ではなく何十人もいて、
毎日毎日車に乗っては町へと移動を続け、
毎晩のように同じ歌を歌っていたのだということを知っていた。


この国は労働者のものではなくなり、軍人のものとなった。
小さな頃には知ることのなかったどこか遠くの国へ僕も兵士として送られた。
船に乗って旅立ったのがもうだいぶ昔のことのように感じられる。
そして今、僕はたった1人塹壕に取り残されて寒さに震えている。
歌姫があの夜歌った歌の1つ1つを思い出しながら・・・。
一緒になって歌おうとして口をわずかに開けてみようとする。
だけどそれすらもかなわない・・・。


・・・撃たれた場所は心臓の近くだったから、
もう少ししたら僕の意識は失われてしまうのだと思う。