風をあつめて

教授から電話がかかってきて、ちょっと来てくれないかという。
隣の駅に住んでいるので時々呼ばれる。
大学院生として付き合いも長くなってくると
ステレオを2階の部屋に移してついでに配線もしてくれないか、
そんな雑用も引き受けることになる。
土曜の朝。今日は何を頼まれることになるのだろう?
時間があったらそのとき読んでいた英語の文献について
2・3意見を伺おうと思ってコピーをカバンに突っ込んで家を出る。
MDウォークマンで昔のレッチリを聴きながら。


まだ5月なのに外は暑い。今日は30℃近くまで気温が上がるのだという。
教授の家は住宅地の一角にあるのだが、緑化なんとか地域に指定されているので涼しげだった。
家の前に着いてピンポーンと鳴らすと
しばらくしてからノイズ混じりのインターホンで「おお来たか。上がってくれ」と言われる。
玄関をガチャッと開けると教授の奥さんが廊下をあたふたと走ってきて、
「まあまあいつもすみません。わざわざ来てもらって。さ、さ、上がってください」
と客用のスリッパを探す。
奥さんはよそ行きのしゃれた服を着ていた。いつもならもっとくだけた格好をしているのに。
どこかに行くのだろうか?なら僕は留守番?
リビングからはテレビの音が聞こえてくる。しかもかなり大きな音で。
教授がテレビ見てるの珍しいな、と思う。


リビングへと入っていくとソファーの上に小さな女の子が座っていた。
教授夫婦は子供がいない。親戚の子供を預かったのだろうか?
「親戚の子を預かったのよ」とそっくりそのままの回答が奥さんから返ってくる。
そしていきなり「ごめんなさい」と謝られる。
「今日これから××先生の講演会とその後パーティーがあって、夜まで家を空けるのよ。
 ・・・それまでこの子を面倒を見てくれないかしら」
教授の研究分野の人の講演会ならば僕だって声がかかって
場合によっては会場の準備も手伝うことになる。少なくとも一緒についていく。
だけど××先生ってのは教授の学生時代の友人だというから僕にはあまり関係がない。


僕が奥さんとその××先生の話をしているとき、
女の子はソファーにじっと座ったままテレビのアニメを見続けていた。
話題が女の子の方に移っても自分のことを話しているのだとは気付いてないようだった。
部屋の中だというのに麦藁帽子をかぶって、水色のワンピースを着ている。
奥さんに年を尋ねると7歳とのことだった。
「学校には通ってるんですか?」と聞くと小声で「複雑な事情があって・・・」と言われる。
それ以上のことは聞いちゃいけないのだなと思う。


階段をドタドタと勢いよく降りてくる音がして、教授がリビングに入ってくる。
教授もまた珍しくピシッと決まったスーツを着ている。
「いやー悪いねえ!オカムラ君。家内から事の始終は聞いてくれたかね?」
「はあ・・・」と歯切れの悪い返事を僕は口から漏らす。
「急な話で君も困るだろうけど、今日だけ1つよろしく頼む」
教授は象牙の塔に閉じこもってる人だけあって、どこかしらとっぴなところがある。
前もって言ってくれてたらとかいろいろ思うことはあるのだが、まあ仕方がない。
今に始まったことではない。
たかだかこれだけの理由で今更他の教授につくのも変なものだし、
彼の下にいるということはそれ自体で興味深い経験だったりする。
学会の中でのポジションもいい。


「もう出なくちゃいけないのよ!」と奥さんがさらにあたふたし始める。
女の子を立たせて、襟元のねじれを直させる。
どこからか子供用の小さなポシェットを見つけ出して肩からかけさせる。
それにスケッチブック。色鉛筆のケースを僕に手渡す。僕に持ってろってことなのだろう。
「じゃあ、よろしくお願いしていいかしら。夜になったら主人の方から携帯に電話します」
気がつくと僕は靴を履いて玄関の外に出ていて、右手には色鉛筆のケースを持っていた。
女の子が門のところにひょこっと立っている。
僕のことをじっと見つめていた。
まるで他の星から来た不思議な生き物を目の前にしているかのように。


(続く)