昨日の夜山手線に乗ったら、新しいタイプの車両なのか
天井の真ん中に2台並んでテレビのモニターが据え付けられているものだった。
ドアの上方に小さくはめ込まれているのではなく。
駅に着くまでの間、見上げながら映像を眺めた。
山手線に日々乗ってる人ならわかると思うが、
列車専用のコマーシャルと普通にテレビで流れるようなコマーシャルとが流れる。
前者は見ていて何の違和感もない。
問題は後者。出演者の口だけが動いていたり、
「ああほんとならここはきらびやかな音楽が流れてるんだろうな」と思わせたり。
つまり、音が出ない。
本来あるべき場所に音がないというのはかなり奇妙なものである。
「静けさ」と「無音」は似ているようでいて全然違うものである。
「静けさ」は概して心を癒すものであるのに対し、
「無音」は時として恐怖すら引き起こす。
シンと静まり返った部屋の中に1人取り残されていることに気付いた瞬間。
あるいは、圧倒的なまでの音の不在感そのもの。
辺りのそこかしこに散らばっているかすかな物音たち。
それがサーッと引いていってふっと浮かび上がる静けさ。
自分がその何もない空間へと吸い込まれていくような心地よさ。
静けさというものは究極の音楽なのかもしれない。
東京は音が多すぎる。
溢れ出して渦巻いている。
音があってもなくても人間はおかしくなる。
感覚が麻痺してしまう。
早朝の渋谷、人通りの全くない井の頭通りを歩いたとき、
音が全くない瞬間があってなんだか不思議だった。
僕は思わず立ち止まって辺りを見回した。
住みやすい町ってのは
一言で言って静かな町ってことではないだろうか?