犬とか猿とか虫とか人間とか

もしもセックスというものがちっとも気持ちよくないものであるとしたならば
この世界はどうなっていたか?
ここで言う気持ちいいとは精神的なものではなくて、もっと即物的なものだとする。
(えげつない言い方をすればエロマンガの中で(自粛)とか表現されるもの)

生殖活動に対する興味が失われて人類はあっさりと滅亡する、というのはひとまず置いておく。


言葉を交わすこと、見詰め合うこと、
お互いの距離が物理的/比喩的に縮まること・遠ざかること。
そういうことだけで恋や愛というものが育ったり育たなくなったりする。
そんな世界。
どこまでもプラトニックな出来事になる。


それはいいことなのだろうか?
楽しいことだろうか?


そこでは例えば手を握り合うということが最も強い刺激となる。
あるいは口付けを交わすこと。
もしかしたらそこでは体と体のふれあいなんて意味のないことのように思われるかもしれない。
大事なのは心と心がいかに触れ合うか。


生殖活動のためにカロリーを消費することはなくなるんだろうな。
「アナログな方式」とか言われて。
全てが機械化され、コントロールされる。
都会化された地域であるほど人工授精の割合が高くなる。
アナザーワールド東京では95%を超えている。
「ええ、主人と同意の下に優秀な遺伝子を掛け合わせようと・・・」


そうなったとき、逆に、裸になるということは何のためらいもないものになるのかもしれない。
あー今日は暑いなあと感じると、男女構わず
オフィスだろうと地下鉄の中だろうと服を脱ぎ始める。裸になって涼しい顔をする。
隠すものなんて何もない。
そんな人たちが平然と歩き回っている世界。


そうだ、「あの人かっこいい!」「あの人きれいだなあ」という感覚もなくなるはずだ。
(だってそういうのって辿っていくと結局は性的な欲望につながるから)
美醜という判断軸はなくなる。
もしかしたら身だしなみというものもなくなるかもしれない。
顔のつくりとは他人Aと他人Bとを区別するものでしかなくなる。


いや、果たしてそうなのか?
だとしたら人はどういうときに恋に落ちるものなのか。
言動と立ち振る舞いだけから人のランクが決まる?
でもそれって今と一緒と言えなくもないよな。
そんなわけで根源的な質問に立ち返る。


人はどんなときに恋をするものなのか?
人はなぜ恋をするものなのか?
人を好きになるってのはつまるところなんなのか?


で、質問が逆転する。


そんなとき、セックスはどんな役割を果たすのか?

    • -

例えば電車に乗っていて、吊革広告に20代後半の女性をターゲットとする雑誌の広告が載っている。
直接的に間接的に「セックス特集」となっている。
どんなときに感じるか。どうすれば感じるか。
そういうこと。
(「パートナーとの体の相性」なんて書かれていると、僕はこの年になってもドキッとする)


その一方で男性たちの偏りに満ちた性的欲望を束の間であれ充足させるための雑誌もまた、
大手を振って流通されている。
冷静になって数値化するならばどうしようもない、ありえないようなファンタジーが繰り広げられている。
なのにそこにどうしても惹かれてしまう。虫けらのように。


若くても若くなくても、お金があってもなくても、
多かれ少なかれ人間というものは性欲というものに振り回されている。
そしてこの世界を右であれ左であれ前であれ後ろであれ、「動かす」力になっている。
この世界を動かす最も大きな力。


どうしようもない気持ちになってどうしようもないことをする。
実際にそういうことができる人もいればできない人もいる。
相手がいる人もいればいない人もいる。
自分の中の欲望に素直になったとき、いろんなことがうまくいかなくなる人がいる。


コノセカイハナンテオカシナモノナノダロウ、と思う。

    • -

あなたの性生活はあなたの生活をどんなふうに規定しているか?
あるいは束縛を、演出を。
あるいは喜びや、悲しみ。