風をあつめて3

交差点で立ち止まる。信号は赤。
車の通りがなかったのでいつもの僕なら走ってくところなんだけど、今はそうはいかない。
小さな女の子の手を握っていて、少しばかり緊張する。
「預かる」ってどういうことなのか。その意味を考え出したとき、ちょっと怖くなってきた。
目の前を通り過ぎるものが何もないのに、
2人して前を向いて立ち止まっているのはなんだかおかしなものだ。
僕はしゃがみこんで話し掛ける。
「いつからここにいるの?」
女の子が僕を見上げる。口を開きかける。何かを考えているようだ。
「えーとね、すいよおび。ウェンズデー」
英語で答えられたことに驚く。反射的に「英語できるの?」と聞いてしまう。
女の子は女の子で驚いたように、また口を閉じる。黙りだす。
「あーまたか」と思う。どうしようか?どうしたらうまく話せるのだろうか?
そのとき、信号が青になっていることに気が付く。
僕は立ち上がり「行こう」と言って歩き出す。
横断歩道を渡って、坂を上って行く。


僕が手を緩めた隙に女の子の指の先がするりと擦りぬけると、坂を駆け上がり始めた。
見る見る間に上って行く。
てっぺんで立ち止まり、今度は女の子の方がしゃがみこむ。僕の歩く様子をじっと見つめる。
僕も走り出すべきかどうか一瞬考える。
(そう言えば最近最後に走ったのはいつだ?)
たいした距離ではないので走らない。だけど歩くスピードは速くする。
すぐにも坂の上の女の子に追いつく。
少し息があがった声で「足が速いね」と声をかける。
「かけっこは好き?」
女の子がこくりと頷く。間を置いて、「ううん。でもきらい」
「どうして?」
「おそいから」
「そんなことないよ」
女の子の顔が曇る。もしかしたら学校で嫌な思い出があったのかもしれない。
もうこれ以上このことは触れない方がいいのかなと思う。


また歩き出す。
今度は手を握らない。彼女は僕の数歩先を行く。
どこに向かってるか知ってるのだろうか?
僕は駅の方に向かっているつもりなのだが、それが彼女に言わずとも伝わっているだろうか?
遊園地だろうとなんだろうと駅に着かないことにはどこにも行くことはできない。
どこかおかしな方向に走り出したらそのときは捕まえればいい。そんなふうに思った。


雲の間に隠れていた太陽がまたその顔をのぞかせる。日差しが強くなる。
僕は何の考えもなしに彼女のスケッチブックを頭の上に持っていって日陰を作ろうとする。
ふとした弾みに女の子が立ち止まって振り向いてこっちを見る。
スケッチブックを頭に乗せた僕と視線が合う。
目を輝かせる。笑い出す。
「それってなに?」
僕も立ち止まる。「なにって、なに?・・・スケッチブック?」
彼女はスキップするかのように僕の周りを時計回りに回って一周すると
今度は反時計回りに一周した。
「へんなの」
僕はスケッチブックを下に下ろす。
「だめ」
えー?と僕は思う。スケッチブックを頭の上に持っていくと不満げな顔をやめてまた笑い出す。
仕方なく僕はそのままの姿勢で歩き出す。
女の子が右手を伸ばすので僕は左手でそっと握る。


女の子が英語の歌を歌い始める。童謡のような単純なメロディーを。
聞いたことがあるようなないような。
女の子の発音はそんなにきれいではなく、日本語っぽい。
聞き取った歌詞を紙の上に書くのなら英語ではなくてカタカナの方が合うような。
一通り歌い終えるとまた黙りだす。
ふと僕の口をついて「日曜日は?」と質問が飛び出す。
「サンデー」
「月曜日は?」「マンデー」
「火曜日は?」「チューズデイ」
そのまま土曜日までいって、彼女はすらすらと答える。
すごいね、と僕は驚いてみせる。


大通りに出て、僕はスケッチブックを頭の上から外す。
その頃にはスケッチブックと僕との関係性に興味を無くしてしまっていたのか、
彼女は何も言わない。
人通りが多くなり、車の流れも速くなる。
お互い何も言わなくなって駅までの真っ直ぐな道を歩いていく。
僕は彼女の右手をぎゅっと握っている。