風をあつめて5

中央線がのんびりと都心へと向かっていく。
いつのまにか女の子は眠りだして、(僕の方ではなく)スケッチブックにもたれかかっている。
携帯を取り出してメールを読む。
恋人から1通届いている。
彼女はイギリスに留学している。時差を考えると向こうは夜だ。
1年上の先輩で、研究科は同じだがやってることは全然違う。
ヴィクトリア朝の産業デザインについて専攻している。
ドクターに進むのを1年遅らせてその分1年だけ留学することにした。
2月に冬学期の試験が終わると同時に旅立って、これでもう3ヶ月以上経過した。
最初は毎日送ってきたメールも2・3日に1通となる。
相も変わらずたわいのないことを書いてよこす。
研究仲間たちとロンドンのソーホーに遊びに行ってどうたらこうたら。
携帯を閉じてしまう。
僕の方に書くことはあるだろうか。
「教授に頼まれて小さな女の子を今水族館へと連れて行くところです」
なんだかおかしな感じがした。


「夏休みになったらロンドンへおいでよ」と彼女は言う。
夏。秋になって冬になって。
その頃には僕も身の振り方を考えなくてはならない。
ドクターに進むか、それとも一般企業に就職するか。
いっそのこと実家に帰ろうか。オヤジからはいつでも戻って来いと言われている。
家業の食品加工工場を継ぐべきかどうか。
県内では手広くやってるし悪い条件の話ではない。
だけど全然その気にならない。
ドクターに進んでからの長い道のりのことを考えるとそれはそれでぐったり来る。
いろんなとこのいろんな教授たちにコネを作って、研究者たちとコマゴマと連絡を取り合って、
論文を書いて学会で報告して。講師になったら若い学生たちに講義して。
こういうのがルーティンワークになったらきっとつまらないんだろうな。
留学もしなくちゃならない。行かないと話にならない。
向こうの大学で博士号を取るぐらいの事をしないとこのご時世、
日本でそれなりの地位に辿り着くことはできない。
「それなりの地位に辿り着く」ことは重要なのだろうか?
考え出すときりがないけど結局は重要なことなんだよな。
地方の小さな私立大学で万年助教授をやってるってのは、やっぱかっこわるい。
一般企業もどうか。もしかしたらサラリーマンが一番気楽なのかもしれない。
だけど僕のように浪人せず、一足先に就職した連中はみんな大変そうにしている。
電車に揺られて残業しまくってお客さんに怒鳴られてヒーヒー言ってる。
2番目の兄は地元の銀行に就職したんだけど、
会えばいつも「おまえはいいよな、好きなことやってて」と愚痴を言われる。
1番目の兄はオヤジの会社そのものを継いだ。
僕に残されているのは半ば子会社みたいな工場だ。
こういうのの一切合財が微妙だ。
あーあ。憂鬱だ。


僕は僕なりに将来のことを考えてブルーになっているのだが、
このことを人に話すと「オマエはまだ甘い」みたいなことを言われる。
そもそも選択肢がいくつかあるというだけで幸せもんなのだそうだ。
どれもこれもパッとしないことが待ち受けていて僕にはちっとも嬉しくない。
このままずっとダラダラ生きていけないものだろうか?
あるいは忙しいなら忙しいでいいからやりがいのあることがしたいものだ。
今この電車の中にもたくさんの大人たちがいるが、
充実した生き方をしている人はどれだけいるのだろう?
そもそも彼らは大人になってよかったと思っているだろうか?
気が付いたら大人になっていて、そのことを後悔し続けている、
そんな人はどれだけいるのだろう?


僕は携帯を取り出してもう1度彼女から来たメールを読む。
返信の文章を書く。書き終えて送信するとまた携帯をしまう。
隣ですやすやと眠る女の子を眺める。
この子にはいったいどんな将来が待ち受けているのか?
僕もまた大人なんだろうな。この子の視点からしたら。
足を前に投げ出して背中を丸めてぐっと下の方まで押し込んで。
四ッ谷を過ぎて次は御茶ノ水
たくさんの車、たくさんの家、たくさんのビル、たくさんの人々。
あーあ。
なんで僕は今ここでこんなことしてんだろ?


東京駅に着いて僕は女の子を起こす。
「よく眠ってたね」と声をかけるもまた黙りだす。
僕はスケッチブックを脇に抱える。
東京駅の地下は大勢の人たちで混雑している。
それぞれの人たちがそれぞれの方向へと向かっている。
僕は女の子の手をぎゅっと握って京葉線のホームを目指して歩く。
長い道のりを女の子の歩幅に合わせてゆっくりと。
「おなかすいてる?」と聞くと「・・・ううん」と首を振る。
長い長いエスカレーターを下っていく。
土曜ということもあってディズニーランドへ行こうとする
小さな子供を連れた家族やカップル、若い女性たちばかりだった。
子供たちはみんな興奮したようにはしゃいでいる。


京葉線に乗る。
空いている席が1つだけあったので女の子を座らせた。
スケッチブックと色鉛筆のケースを両腕で抱えさせる。
僕の方を見上げて女の子が突然「おさかな?」と質問をする。
僕は「おさかな」と答える。
もう1度「おさかな?」と言うので、
僕はもう1度「おさかな」と答える。

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風をあつめて4 http://d.hatena.ne.jp/okmrtyhk/20040817