僕らの足は自然に水族園の建物へと向かっていった。
巨大な鳥かごのような透明なドームが遠くからでも目立っている。
橋を渡るとき女の子は格子柄のタイルのうち、
赤いものだけを選ぶために足を伸ばしたりジャンプしたりしながら前に進んでいった。
スケッチブックは自分で持っている。
その小さな体をすっぽりと包み隠すぐらい大きく見える。
ゲートで入場券を2人分買って、小さな道を広場に向かって歩いていく。
レンガを積み上げたような階段を上る。
ドームは浅いプールのようなもので囲まれている。その表面にさざなみが起こる。
女の子は近寄ってしゃがみこんでその手の平をそっと水面に押し付ける。
「つめたい」と女の子は言う。
僕も体を曲げて右の手首を中に浸す。冷たくて気持ちいい。
「泳げる?」と僕は聞いた。
「ううん」と女の子は首を振った。
「そっか」実を言うと僕もそんなに得意なほうではない。
ドームの中に入る。
ここは水族園の入り口でしかなくて、長い長いエスカレーターが下まで伸びている。
エスカレーターに乗っていると、女の子が首をぐいっと傾けて天井を眺めた。
「くものすみたい」と言う。
僕も首を思いっきり反らす。ドームの銀色の鉄骨が縦は天頂の一点に収縮するように伸びていて、
同じ高さで円を描くように横方向の鉄骨が交差している。
その向こうには白い雲が浮かんでいて、クモの巣に絡めとられたように見える。
僕はスパイダーマンのことを思い出す。
映画の続編がこの夏にも日本で公開されるんだよな。
エスカレーターは少しずつ前に進んでいって、やがてドームは視界から外れる。
辺りが暗くなる。ひんやりとした空気に包み込まれる。
下の階に到着するとそこには横長の大きな水槽があった。
振り返るとそこにはさらに大きな、壁いっぱいに広がるほど大きな水槽が広がっていた。
女の子は「わー」と嬉しそうな表情で小さい方の水槽へと近付いていった。
人垣の空いているところを見つけるとそこにぺったりと貼りつく。
僕の腰から上のところから水槽が始まっていて、女の子にはちょうどいい高さだった。
泳いでいたのはサメ。
女の子は「あれ」と目の前を素早く横切っていったのを指差す。
「何かわかる?」と僕は女の子に聞いてみる。
「さめ」
「よくわかるね。サメ。ジョーズ。これまで見たことある?」
「はじめて」
「はじめて?」
「ずかんでみたことある。それと、がっこうでならった」
よくできました、と僕は先生のような口調を真似して言う。
そしてふと思いついて質問してみる。
「学校は楽しい?」
女の子は横に立っていた僕の方を見上げると、そのまま静止する。
一瞬表情がなくなる。こわばって動かなくなる。
しまった、と僕は思う。
「ううん」と女の子は言う。
虚ろな目をしている。もしかしたら泣き出すかもしれない。
僕はどうしていいかわからなくなる。
僕は女の子を見つめ、女の子は僕の顔のある方を見つめ続ける。
ものすごく長い時間が流れたかのように感じられた後で、女の子がその顔をそらした。
そしてうつむき加減になってポツリと言う。
「・・・いじめられるから」
僕はもっと、どうしていいかわからなくなる。
僕は女の子をそっと軽く叩いて、「あっちの水槽を見よう」と言う。
僕はその子の手を握って向かい側の水槽へとわずかな距離を歩いていった。
物理的にはわずかな距離なのに、心理的には途方もない距離がそこには横たわっていた。
僕はわざとゆっくり歩く。
たくさんの人が現れてはどこかに消えていった。
段差があったので注意深く、僕は彼女を下に下ろした。
どの段も足首ぐらいでたいした高さではなかったが、
一歩ごとに空気の流れが変わって深い海の底に沈みこんでいくような気がした。
水槽には「大洋の航海者」とパネルが掲げられ、
マグロやその他様々な種類の魚たちが泳いでいた。
海水を青で、大陸を紺色で描いた大きな世界地図が
薄暗い空間の片隅で淡い光を放っていた。
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