ニューヨーク・シティ・バレエ

先週の日曜、渋谷 Bunkamura
ロバート・アルトマン監督の「バレエ・カンパニー」を見た。
なんだか感化されてしまってこの週末からオーチャードホールで行われる
ニューヨーク・シティ・バレエを見てみたくなった。
日曜の回(つまり、今日)のが空席があったので思わず買ってしまった。
見に行ってきた。


土曜の分は完売していたが、日曜のは完売してなかったのだろうか。
空席がとても目立った。
僕の前の席なんて1列丸ごと空いてた。
それでいて僕の列はぎっしりと空きなしに座っていた。
恐らく協賛か何かのためのチケットだったのが
思うようにはけなかったってことではないだろうか。

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ニューヨーク・シティ・バレエは1948年振付家ジョージ・バランシンによって創設された。
その名の通りニューヨークに本拠地がある。
今年はそのバランシンが生誕100周年だそうで、記念公演を各地で行っているようだ。
ウェスト・サイド・ストーリー」の作者ジェローム・ロビンズも
振付家・芸術監督としてここに在籍していた。
世界の文化の中心地の1つであるニューヨーク、
そこを代表するバレエ団であるため、その質は保証されていると言ってもいいだろう。


・・・が、素人の僕にはよくわからず。
このバランシンという人の方法論としては
音楽に対して直接に結びつく身体の動きというものを重視していたようだ。
つまり、言語的なもの/文学的なものを
その身体運動の内に秘めたり、外に表出させたりすることは求めようとしない。
あくまで純粋なバレエ。そのアンサンブル。
なのでバレエを超えた何かをそこに探し求めようとしても空振りに終わる。
ベジャールを見たときに僕が感じた鬼気迫る何かというのは一切感じられなかった。
身体と精神の鍛錬を続けることによって獲得した滑らかな動き、優雅な身のこなしを
音楽に合わせて展開していく。その一点のみ。
文学的に、あるいは社会的に、訴えかけるものはゼロ。
そういうのを面白いと思うかどうかはその人次第だろう。
僕は「はー・・・。バレエっていいもんだねえ」と
ぼけーっと見てるだけで「まあいいか、こういうのも」と思ってしまった。
質が高いから、それだけで見れてしまうんですね。
(でも前半は睡魔との闘いだった)


プログラムはA・B・Cとなっていて、僕が見たCは
ストラヴィンスキー・ヴァイオリン・コンチェルト」
「ハレルヤ・ジャンクション」
チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」
「フー・ケアーズ?」
2番目の以外の振り付けはバランシンによるもの、
4番目はガーシュウィンが作曲。


Bプログラムでは「ウェスト・サイド・ストーリー」が演目となっていた。

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今回のバレエをきっかけにちょっと考えた。
上にも書いたように芸術には2種類ある。
例えばバレエで言えば


・バレエという表現形態を通じて何かを表現するもの
 ここでいう何かとは、思想、詩的イメージ、社会的プロテスト、
 あるいは名前の付けようのない根源的な芸術的高み、などなど


・バレエという表現形態の中でバレエそのものを追求するもの
 これはこれで根源的な芸術的高みに到達するかもしれない


どっちが優れているってことはない。
補完しあえればいいのだが世の中そううまくはいかない。
劇団や映画製作のように芸術を志した人たちの集まりでは
この2つの意見の対立が生じてうまくいかなくなってしまうことがある。
これに金(食っていきたい ⇔ 趣味でいい)が絡むとややこしいことになる。
結局その集団のリーダーがどっちを求めるかってことになって、
意見が合わなくなるとその人は出て行って。
その繰り返し。


芸術を志す集団が成長していくには、
指導者がどれだけ強い意志とヴィジョンを持っているかということにかかっている。
バランシンはそれがはっきりしていた。
だから創立より50年以上経過していてもカンパニーとして揺ぎ無い。
そういうところまで思いをめぐらしてみると、
今自分の見ているものはすごいものなんだなと思わされた。