野田秀樹「赤鬼」日本ヴァージョン

野田秀樹の演劇を見てみたいとずっと思ってきた。
時間のあるときにはお金がないし、お金があるときには時間がない。
それ以前にどの公演も即日完売となってしまうようだ。
チケットが手に入らない。
それが今回何とか入手することができたので見に行った。
平日の午後の回だったのでわざわざ水曜、会社を休んで。
今年前半は野田秀樹が初めてオペラの演出を手がけて話題になった「マクベス」も見ているが、
いわゆる演劇は僕にとってこれが初めて。


1996年に NODA・MAP の番外公演として初演された「赤鬼」は
1998年にタイで、2003年にロンドンで、
野田秀樹の演出の下その国の言葉でその国の役者たちによって公演が行われた。
今年その3バージョンが Bunkamura 15周年ということで
連続して上演されることになった。
タイバージョンは歌と踊りがメインとなり、
ロンドンバージョンはシェークスピアのお国柄か台詞にこだわりを持ったものとなったようだ。
人数はそれぞれ異なってタイ:15人、ロンドン:8人、日本:4人となる。
タイとロンドンのバージョンではどちらも共同体への侵入者「赤鬼」役は野田秀樹となり、
日本版での「赤鬼」役はイギリス人が演じることになる。
(この赤鬼役は一頃現代思想ではやったところのキーワードで言えば「他者」ってわけで
最初のうち言葉が通じないってのが端的にその存在の異質さを表している)
同じ台本を元にしていてもそれぞれのバージョンで雰囲気ががらっと変わるようで、
可能なら3バージョンどれも見てみたかった。DVDででないかな。


話を要約しても仕方がない。
舞台は海辺の村。時代は不明。近代以前なのは確か。
メインの登場人物は4人。
海辺に漂着した赤鬼(異国人)。海辺に暮らす頭の弱い兄。
村人からは「あの女」呼ばわりされ疎まれている妹(2人はよそ者扱いされている)。
その妹に思いを寄せるちゃらんぽらんで口先だけが達者な男。
まあ、なんというか浜辺に打ち上げられた赤鬼をめぐる一騒動。
兄(とんび)役を野田秀樹自ら演じ、
妹(あの女)役は小西真奈美、男(水銀)役は元ナイロン100℃の大蔵孝二、
赤鬼役は名門劇団と思われる「テアトル・ド・コンプリシテ」のヨハネス・フラッシュバーガー。


開場時間にシアターコクーンに入ったら、そのときかかっていた曲が
Procol Harum「A Whiter Shade of Pale」(邦題は「青い影」誰でも聞いたことある有名な曲)
洋楽の懐メロとどこの国とも判別つかない摩訶不思議な民謡と流行歌の合いの子みたいな曲が交互にかかる。
The Animals「House of Rising Sun」を聞いたのを覚えている。
Shocking Blue「Venus」の途中でいきなり音楽が途切れて
ダダダダダッと4人がステージに現れて唐突に劇が始まった。
ステージはひょうたん型のごくごく小さなもので、その周りを椅子が囲っている。
シアターコクーンって初めて入ったんだけど、四方が観客席という特別な造り。


野田秀樹の演劇は詰め込みすぎなぐらい言葉数が多く、
派手に動き回って飛んだり跳ねたり走ったり大変だ、という話をよく聞く。
見てみたら確かにそうだった。
セリフが機関銃のように飛び出してきて、身体を駆使したありとあらゆる動作が切れ目なく続く。
予想と違って意外に小柄な野田秀樹が、もういい年なのに一番アクションが大きかった。
意外ついでに言えば声も甲高い方だった。
僕の中では勝手に背が高くて低い声を想像していた。


すげーと思った。
知的に物事が進んでいく割にものすごく笑える。こんなに笑えるものだとは思ってもみなかった。
いわゆる「ギャグ」の笑いなんだけど、嫌味なくべとついてなく、自然にクスッと笑えるものだった。
腹抱えたくなるようなのもたくさんあった。場内笑いの渦に包まれる。
シリアスだった後にするっと空気が変わってユーモラスな場面になったりして
この切り替えのしなやかさがハンパじゃなくうまい。
ああ、こういうのが舞台ならではの演出なのだなあ、と感心させられた。
テレビ番組の笑いは確かに面白いが、信用ならない。合成甘味料みたいなのがほとんどで。
こういう演劇的な笑いっていいなあ。
(今年あれぐらい笑ったのってなんかあったかなあと思い返してみたらやはり演劇で、
スロウライダーの公演を見に行ったときぐらいだった)


目の前で繰り広げられている出来事そのもののすごさってのもあった。
4人だけの出演者が一瞬にしていろんな役柄に切り替わっていく。
それこそもうたった1つの動作やセリフの言い回しだけで。
どうしてこんなことができるんだろう?
ただ単純に役者としての力量と台本のセンスってことになるんだろうけど
そもそもこんなことできる人たちって日本に今どれだけいるんだろう?
そうそうできることじゃないよなあ。
見ててすげーすげーと舌を巻いてばかり。
大袈裟な場面転換はおろか照明や音楽の切り替えすらないのに、
振り向いただけで小西真奈美は村長から村人へ、村人から「あの女」へと人物が変わっている。
で、それが何の説明がなくても直感的に伝わってくる。
人物だけでなく小道具や大道具にしてもそう。
「背景」に値するものは一切なし。
ひょうたん型のステージとその周りに敷き詰められたプラスチックの瓶、
大きなゴムボール数個と網、下部をタイヤで固定したポールぐらい。
それがある瞬間には部屋の中になり、ある瞬間には船になり洞窟になり。
小道具や大道具、4人の役者のセリフと身体の動きだけで
その場の状況に何重にも「意味」というものが重ねられていく。
そしてそれがプリズムのような光を放つ。
刻一刻と切り替わっていくのに
不思議と一貫性を保っているコンテクストの、そのよじれ方がとんでもなく気持ちいい。
こういうのってみもふたもない話、野田秀樹の才能ってことになるのか・・・。
だとしたらこの人は紛れもなく天才だ。

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ベタな言い方だけど、感動した。感動して心揺さぶられた。
物語の展開もそうだけど、今自分が目の前にしている「表現」の質の高さに。
僕の場合いつも割と気軽に「感動した」って書いちゃうんだけど、
今後はもうこの言葉を安易に使えない。
これは本物だ。本物の体験だ。
これまでなんとなく漠然と「こういうのが見れたらいいな」と思い描いていたものが
この世に存在していて、それが実際に目の前で一生懸命演じられていた。
ショッキングとしか言いようがない。


見終わった後ジーンとして、柄にもなく「僕もがんばろう!」と思ってしまった。
同じように人の心を揺さぶるものを僕も生み出さなくてはならない、
今は例えそれが全然できないとしても、いつの日かそこまで到達しなくてはならない。
気持ちが無茶苦茶奮い立った。「やらなきゃ!書かなきゃ!」と思った。
すごいものを見せられたときってスーッと目の前が開けて
視界が広がるような思いをするんだけど、
この日見たものには確かにそれがあった。


泣きそうになるぐらい文学的な、素晴らしい余韻を残すラストの後、カーテンコールになる。
こんなとき僕の拍手って周りがしてるからって感じのおざなりなもんなんだけど、
今日だけは心の底から拍手したくて手を叩いた。
四方の観客に向かって無心の表情でお辞儀をする野田秀樹の姿に何よりも感動した。
目の前にその人が立っているというだけで神様のように感じられる人って
僕にとっては忌野清志郎以来だ。


もしかしたら今日の公演は最良のものではないのかもしれない。
80年代や90年代にもっととんでもない公演があったのかもしれない。
でも今の僕にとってはこれで十分だ。
当分この余韻で生きていける。


次の公演も見に行く。
つうか一生追いかけたい。