1.バイオリン 2.犬

1.
荻窪駅から僕のアパートまでの途中にとある個人経営の病院があって、
朝や夕方、時々中からバイオリンの音が聞こえてくる。
「バイオリンを弾いている音」ではない。
あくまで「バイオリンの音」、弦を何かでこすって吐き出しているような音である。
擬音語で言えば「ギーコギーコ」というよりは
ジャイアンが空き地でリサイタルを開いた時の「ボエー」を甲高くしたような感じ。
再現するならば「ギー、ギョエー、キキー、ゴッ。グーギーキョー」


通りがかると「ああ、またやってるよ」と思う。


ある日ふと気がつく。
僕が荻窪に越してきてから早いものでもう5年半になる。
ハッと思う。
「この病院の中でバイオリンを弾いている誰かは
ここ5年半というもの一向に上達していない」


これっておかしくないか?


耳に心地よい音色であるとか、滑らかな旋律であるとかが出てくる気配は全く無し。
上達というよりは進化だな。
何もないままってのは不思議を通り越してむしろ怖い。
5歳の子供にバイオリンを与えて無邪気にギコギコやってたとしても
10歳になる頃にはそれなりの腕前になっているはず。


院長自ら弾いている?
だとしたら、5年かかってバイオリンがちっともうまくならないことは
医療技術の良し悪しとは有機的な関連性はないとはいえ、ここにはかかりたくない。
ストレスの解消のためデタラメに弾いているのだとしても、同じくかかりたくない。


いったい誰が弾いているのか?


僕がここ荻窪に住み始めたのが5年半前なので「5年かかって」なんて書いているが、
もしかしたらもっともっとずっと前からこういうバイオリンを弾いているのかもしれない。
10年以上前から、とか。



2.
ある日アパートの近くを歩いていたら
狭い四辻を30歳ぐらいの女の人が横切ろうとしていて、犬を連れていた。
「犬を連れていた」と僕が認識したのは電柱の陰になっていて詳しくは見えないが
右手の動き方とかがそのような挙動をしていたからであって
犬そのものを見たり吠える声を聞いたわけではない。


車が走り去ってその女の人は通りを渡り始める。
後ろに伸びた右手が何かをクイッと引っ張る。


・・・なのにその右手の先には何もない。
犬はおろか紐すらない。


その何かがノロノロと体を持ち上げるまでにてこずり、
「それ」が歩き出してからはリズミカルにテンポよく(つまり、その何かの歩調に合わせて)、
「それ」と共に通りを渡った。
ちらっと振り返って「それ」に向かって微笑むことすらした。


パントマイムの練習なのか、それとも彼女は幻を見ているのか。
正直者にしか見えない「犬」なのか。


僕は立ち止まってその人をしげしげと見つめていたわけではなく、普通に前方に向かって歩いていた。
すれ違いそうになる瞬間がなんだか嫌で、僕は歩くスピードをかなり落としていた。
その人が過ぎ去った後、四辻で止まってそれとなく、
その人のゆっくりと遠ざかる後ろ姿をほんの2・3秒眺めた。
彼女の心の中には自宅で飼っている犬が存在していて、
一緒に今散歩していることから生まれてくる満足感というか幸福感がほんのりと伝わってきた。


「気持ちの持ちようで幸福はどこにでも転がっている」というわけではないが、
まとにかく、「あーこういう人もいるんだなあ」と思った。