宇宙の孤児

一昨日・昨日と「広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由」について書いた。
この本を読むと、もしかしたらこの宇宙で知的生命が存在するのは地球だけってのも
あながちありえない話ではないな、と思ってしまう。
何億分の1か何兆分の1の可能性で生命を育むに最適な惑星が生まれ、
さらにその何億分の1か何兆分の1の可能性で「人類」という知的な種へと発展していった。
(ここで言う「知的」とは例えば、政治・経済・科学・芸術を生み出した、という意味)
ほっとけば自然と海のある惑星ができて、潮の満ち引きを生み出すような月が衛星となって、
単細胞生物が多細胞生物となりあれよあれよという間に脊椎動物が生まれ、
猿が道具を使うようになる、そんなことあるわけがない。
そうして誕生した人類が隕石の衝突だとか原因不明のウイルスにやられるとか、
地軸がずれて氷河期になるとか、そういう災厄を地道に耐え忍んできた。
いつ絶滅してもおかしくはなかった。


気が遠くなるほどの確率を経て、今僕らはこの星の上に存在している。
しかもこの広い宇宙にてたった1つきり。
少なくとも地球人が現時点で知る範囲においては1つきり。
これってすごいことではないか?
何重にも絡み合った奇跡としか言いようがない。
このことに思い巡らす時、物事のスケールの大きさに途方に暮れてしまう。


逆に、日々のウダウダした物事に対して、
こんなちっぽけなことを思い悩んでいていいのだろうか?
なんて一瞬思ってしまう。
どのようにして今自分が人類の一員として存在するに至ったかを思えば吹けば飛ぶようなものだ。
(まあ、でもそんな雄大な気分になるのも一瞬だけ。
 この尺度は日々の暮らしに当てはめて使うには余りにも大きすぎるので何の役にも立たない)


人類は今、こんなことをしていていいのだろうか?とも思う。
もっとやるべきことがあるのではないか。
なんで身内で争ってるのか?
半径5m以内の痴話喧嘩から国家規模の様々ないざこざ。
そんなことしてる場合か?
もっともっと進化していかなきゃバチが当たるのではないか?


イラクとかアメリカとか言う以前に。
例えばこういうベタなサラリーマンを想像する。


朝起きるが妻は寝ている。トーストを自分で焼いて食べる。
「ゴミ捨ててきてー」と布団の中から声をかけられる。
満員電車の中で押し合いへし合いする。
隣に立っているブサイクな女性の香水がやたらきつくてしかもピンヒールで靴を踏まれる。
それでいて自分の方が被害者であるかのような顔をしている。
朝9時になると朝礼を始める。
部門で始まった「一日一善」運動の成果発表を持ち回りでしなくてはならない。
頭の悪い後輩が「お年寄りに席を譲りました」レベルのことをちんたらと話してパラパラと拍手が起きる。
「こんなことに時間使ってる場合か、ボケ」と思うが、課長が言い始めたことなのでどうにもならない。
仕事が始まってすぐクレーム対応の電話が回されてくる。
ビデオのリモコンが使えないと。お宅の商品はどうなってんのかと。
バカ丁寧にへりくだった態度で電池が切れてないか恐る恐る尋ねてみると
受話器の向こうで「あ」という声。
当たりのようだが、なぜか逆切れされる。偉い人を出せ、と怒鳴られる。
応対していると周りの席の人たちは「あーまたあの人やらかしてるよ」という目で
クスクスと笑いながらこっちを見ている(ように感じられる)。
案の定、電話が終わった後で課長に呼ばれて説教される。
君は顧客のことがちっともわかってないと。
殺意を感じる。
目の前の課長に、先ほどのクレーマーに、頭の悪い後輩に、電車の中の女性に、ぐうたらな妻に。


こういうことをしている場合ではない。
人類の一員たるもの、こんなことをしている場合ではない。
もっと他にやるべき「高尚なこと」があるだろう。いや、あるべきだ。
でなきゃいったいなんのために何兆分の1に何兆分の1を掛け合わせたような確率を経て
地球人は生命や文明というものを形作ってきたのか?
情けないったらありゃしないね。


こんな僕も今日会社でする仕事といえば
各種トラブル対応のすり合わせのすり合わせみたいなものばっかりで
人類の進歩・発展には今日もまた何の貢献もしない。
あーあという感じ。


僕らは宇宙で1人きり。
他に誰もいない。
我々はこのことを時々思い出すべきである。