三宅島に帰る人たちの姿を竹芝桟橋で見かける

昨日の夜、帰りに竹芝桟橋のフェリー乗り場の前を通りかかったら
テレビ局の取材班の姿を見かけた。
カメラを担いだ人、マイクを持った人、ディレクターらしき人。
それぞれみな腕にその局の腕章をつけている。
道路にはテレビ局のワゴン車が何台も停まっていた。
なんだろう?と思ってフェリー乗り場に近付いていくと
建物の中では各局の取材班たちがあちこちに固まっていた。
大きな荷物を背負った乗客らしき人にカメラを向けてインタビューをしていた。
頭の方に「三宅島」と書かれたのぼりを見かけて、
「あ、そういうことか」と思う。
昨日の午後、三宅島にて4年半ぶりに避難勧告が解除された。
帰島に向けて第一陣の夜行便が今から出向するところだったのだ。
今日の朝起きてニュースをつけたら
船を下りる三宅島の村長の姿が映っていた。
有毒ガスが噴出している恐れがあるため、島民全員に防毒マスクが支給された。
一連のニュースの中でなぜかそのことが記憶に残った。
自宅に戻っても防毒マスクをかぶって生活をするというのは
シュールな光景のようでもあるし、悲しい光景のようでもある。


ついこの間三宅島の火山が噴火したように思えるのだが、
もう4年半もの月日が経過していたのか。
年末年始や卒業式・入学式、あるいは甲子園予選のシーズンになると毎年
避難所生活をしている人たちの様子がニュースで取り上げられていた。
10代半ばから後半の子ならこの4年半で人生変わってしまったんだろうな。
中学か高校の丸々3年を東京で過ごすことになる。
高校を卒業して、そのまま東京に住み着いてしまうのではないか。
島に戻るという選択肢は4年半の間なかったし、
「東京」という場所は平たく言ってまあ魅力的な場所だ。


最近では新潟で起こった地震
避難所生活を送っている人たちが日本には大勢いる。
だけどそれは僕にしてみればテレビの向こう側の世界のことであって、
正直な話あんまりピンと来ていなかった。
毎日毎日現れては消えていくニュースの1つに過ぎなくて、
僕と僕の生活を取り囲む「リアルではないもの」の1つの抽象的な事例でしかなかった。
昨日の夜、フェリー乗り場に集まった島民の姿を実際に見て
「そういうことじゃないんだな」と考え直す。
からしてみれば島民たちが直面した様々な不安や痛みや悲しみを
体験することはおろか想像することもできないのだが、
それでも彼ら/彼女たちは現実に存在するのだ、生きているのだということが
ようやく受け止められるようになった。
(平和にのほほんと暮らしている人の傲慢な物言いだとしたら大変申し訳ないです)


4年半ぶりの我が家。
すぐには元通りの生活はできない。
家そのものの設備もそうだし、家族の絆という意味でも。
失われた4年半が辛い傷跡となってその後何年も何十年も引きずらざるをえない、
そんな生活とならないなることを望む。


普段は全く実感がないことなんだけど、
帰れる家があるということはとてもありがたいことなのだ。