もののけ姫

昨日ぽっかりと休みができてしまったので
会社の後輩からだいぶ前に借りてそれっきりになっていた「もののけ姫」のDVDを見る。
面白い。すこぶる面白い。これは大画面で見たかった。
もののけ姫」公開初日に僕は従姉妹の住む仙台にいて、
何か映画を見ようという気分になって同じく公開初日だった「スピード2」を見た。
今となってはものすごく悔やまれる。ま、それなりに面白い映画ではあったんだけど。

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もののけ姫」「千と千尋の神隠し」が宮崎駿の2回目のピークであったように思うし、
(もちろん1回目は「ナウシカ」「ラピュタ」「トトロ」の辺り)
そうなるとどうしてもこの前見た「ハウルの動く城」と比較してしまう。
こういうことなのではないかと考えた。


もののけ姫」では善と悪の対立という構図が物語構成上の大きなポイントとなっている。
ただしこの善と悪はそれぞれの登場人物についてはっきりと
「この人は善」「この人は悪」と線を引いて分けられるものではなく、
1人の人物の中においても善と悪とが同居していて、
その人の置かれた状況においてその都度不可分な混合物の割合が異なってくるというようなものである。
それは例えば「エボシ御前」や「シシ神」といったキャラクターを見れば明らか。
村落的共同体の中、それより高位に位置する「社会」というものの中、
さらにそれよりも高位(?)に位置する「地球環境」というものの中に置いてみた時、
「エボシ御前」は善にもなるし悪にもなる。
森の生き物たちのものだった「シシ神の森」を人間にとって住みよいものに無理やり変えようとする
エボシ御前は朴訥とした村の人たちには心の底から慕われているといった具合だ。
それぞれの人・動物にはこれまでの生き方によって裏打ちされた
それぞれの生きるための「論理」があり、それに導かれてその瞬間における行動を選択する。
こういう重層的なキャラクターたちが入り乱れて1つの大きな戦いへとなだれ込んでいくのだから
何よりもこのストーリーの緻密さと濃厚さに「すごい」と唸らされてしまう。
そしてその善悪のごった煮を提示して見せる一方で
映画のコピーにもあった「生きろ」というメッセージを投げかけるのだから
宮崎駿監督の「哲学」は明快であって、心に響きやすい。
何事も割り切ることの難しいこの現実の世界を我々はただただ「生きていく」しかなく、
そしてどうせ生きていくのなら力強く肯定的に生きていく方がいいに決まっている。
そういうことなのだと思う。


千と千尋の神隠し」はこのようなとっつきやすい善と悪という二項対立の図式を飛び越えた
もっと言葉にしがたいものを描いていたからこそ、さらなる評価を得たのだと思う。
そこにあるのは善悪を超えた生きる意志のぶつかり合いである。
そのぶつかり加減の豊穣さが織り成す豪華絢爛たる御伽噺が世界の多くの人たちの心を捉えた。
何と何が折り重なっているのか1度見ただけではわからないぐらいの複雑さ、繊細さ、
そしてそれが露骨に表明されているのではなく個々人の人格において統合しているというものすごさ。
ミクロなものを突き詰めていくことにより、壮大なマクロを描ききってしまうことに宮崎駿は成功した。


・・・という観点から見たときに「ハウルの動く城」はものすごく後退しているように感じられる。
この人は善です。この人は悪です。で、戦います。主人公は大冒険を繰り広げます。
そんな見せ場があります。以上、終わり。
そういうものとしか思えない。非常に薄っぺらくて表面的。
前2作から期待していた多面性、豊穣さ、トリッキーな繊細さ・緻密さは皆無。


ひっかかるのは、宮崎駿がその才能を使い果たしたから、
というかいろいろな物事を放棄したからこうなったわけではないのが画面の端々に感じられることだ。
何か思うところがあって今回こういう作品になった。


それは結局のところなんだったのだろう。
もしかしたらそれはひどく簡単なことで、
前2作でアニメという枠組みを利用した「芸術映画」を極めることに腐心した(かどうかはわからんけど)
宮崎監督はその行き着くところまで行ってしまってその作品で求めたい何かが変わってしまった、
アニメという枠組みで「アニメ」を描きたいという原点に立ち返りたかったのではないか。
だとしたら小難しい理屈や図式は抜きにして、どんどんいろんなものは削ぎ落としていった方がいい。
宮崎駿はアニメに戻った。


難しいのは時間は絶えず進んでいくものであって、
螺旋的な道筋を選択することでいったんはスタート地点に縦軸・横軸的には重なる地点に戻ってきたとしても
時間軸としては遥か彼方前の方に進んでしまっている。
だからこの「ハウルの動く城」は「ルパン3世・カリオストロの城」と単純な比較は出来ないし、
どうしても「カリオストロの城」の方が面白い。
世界を征服する前の、「良質なアニメを作るんだ」という純粋無垢な輝きに満ちているから。


こんな不利な状況でも原点に立ち返ったのならば宮崎駿はやっぱすげえなと思わざるを得ない。
ハウルの動く城」が実際問題面白かったのかどうかは別として。


結局のところ作品を真価を決めるのは
アニメというものに心をときめかせる子供たちであって
あれこれ難しく考えがちな大人たちがあーだこーだ言うことではないんだろうな。
今回の作品については子供たちにこそ、その声を聞きたい。
子供たちが無我夢中になって笑顔を浮かべて「おもしろかった!!」って言ってもらえたら
宮崎駿としてはそれで十分なのだろう。
そして僕たち大人たちは差し出されたものに対して小難しいこと考えずに、
批評的な観点からあら捜しをするようなことをせずに、
目の前にあるアニメをそれが良質なものであるのならひょいと受け取って口に運んで
おいしかったらおいしいというべきなんだろうな。
材料は何であるとかどこそこの何を製法として用いたとかそんな裏方の出来事は勘ぐらないで。
そういう姿勢が今、求められる。
ハウルの動く城」はそのための啓蒙だったのだ。
この作品を観てあれが足りないこれが足りないとブーブー言っている大人たちは
自由な心を忘れてしまっている。


だけどそれは今の僕たちにはひどく難しい物事であって、
そう簡単にどうこうすることはできない・・・。
より複雑なもの、より「芸術的」なものをありがたがってしまう僕等は間違っているのか?

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それにしても宮崎駿って巨神兵が大好きなんだねえ。