「2001年宇宙の旅」あれこれ

「2001年宇宙の旅」の1シーン。
精神に異常をきたした船内コンピューター HAL9000
非常事態をたった1人生き残ったボーマン船長と対峙したとき
どんどんその言語能力が壊れていって、最後に子守唄を歌い始める。
「デイジー、デイジー
もっと正確に記述し直すならば
「デーーイジーーー・・・・デーイジーーー・・・」
極端にトーンの低くなった声。1度聞いたら忘れられない。
「2001年宇宙の旅」は
サルが骨を投げたら宇宙船になったとか、
ラスト近くのサイケデリックな映像の洪水だとかというような
わかりやすい名場面も多いが、
ここは陰の名場面の代表と言っていいだろう。
(少なくともファンの間では)


最近なぜかこの「デイジー」の声をよく思い出す。
僕の心の中で「デーーイジーーー・・・・デーイジーーー・・・」が延々と繰り返されている。

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監督スタンリー・キューブリックは「2001年宇宙の旅」において
意図して、無名の俳優を起用したのだという。オーディションを行って。
例えばボーマン船長はキア・デュリアという俳優が演じているが、
今時誰もこの人の名前は知らないだろう。
(先ほど検索してみて僕も初めて知った。その後の出演作品も「2010年宇宙の旅」ぐらいのようだ?)
何回もこの映画を見ている人であっても、もしかしたらその顔を思い出せないかもしれない。
キューブリックは「博士の異常な愛情」ではピーター・セラーズを、
「時計仕掛けのオレンジ」ではマルコム・マクダウェルを、
「シャイニング」ではジャック・ニコルソンを、
そして遺作「アイズ・ワイド・シャット」ではトム・クルーズを、それぞれ主演で起用している。
その時々の人気のある役者たちだ。
決して素人好きというわけではない。
素人を使って「リアルだ」なんて言い出すようなことはキューブリックの場合絶対ありえない。


「2001年宇宙の旅」は無名の役者が出ることによって、不朽の名声を勝ち得たのだと僕は思っている。
「演技の上手な」スター性のある役者が出ていたら全てぶち壊しだ。
「ああ、この人が主役なのだな」と観客の注意はその人物の一挙一動に集まって、
その人物にまつわるドラマチックな展開を求めてしまう。
「2001年宇宙の旅」の主役はあくまで、人類、太陽系、そしてその進化(の過程)や
60年代末という時代から見た1つの近未来「2001年」なのであって
特定の人物ではないのだということ。
僕の知る限り、映画という媒体を使ってかなり広範囲の観客を相手にして、
抽象的な概念を主役に据えたのはこの作品が初めてのことである。

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もう1つ陰の名場面を挙げるならば、
宇宙ステーションへと向かうシャトルが太陽系の宇宙空間をゆっくりと進んでゆくとき、
ヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」が流れるところだろう。


「美しき青きドナウ」は不思議な曲で、
どんな映像に当てはめても「美しき青きドナウ」に染まってしまう。
それほどインパクトが強い。
国会中継だろうとサッカーの試合だろうと我が子の成長を撮ったホームビデオだろうと、
音声を全て消して背後に「美しき青きドナウ」を流すと
なんか独特のシンフォニックかつ微妙にユーモラスなファンタジーとなる。
映像をスローモーションにするとなおいい。


宇宙空間+宇宙船というありえない状況で流されることで
いったんミスマッチに思えるものが実はかなりしっくり来る。
(クラシック)音楽を映画の中で大胆な使い方をしてみせたという
こういうところにこそ、僕はキューブリックの天才性を感じる。

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何年か前に、というか、2001年のことか。
銀座テアトルシネマでリバイバル上映を見た。


この映画はやはり大画面で見るに限る。
スクリーンの隅から隅に至るまで一切の妥協・手抜き無し。気配りが行き届いている。


あれほどの衝撃の映画はもう2度と作られないのだろうか?
60年代末という時代が作らせた映画だったように僕は思う。