メキシコ旅行総括

メキシコシティーから帰ってきて早1ヶ月以上経過。振り返ってみる。
なんだか遠い昔の出来事のようだ。それならまだしも
「そもそも行ってないんじゃないか?」「そんなとこ行ってたっけ?」なんて思うこともしばしば。
夢を見ていたんじゃないか?幻だったんじゃないか?


帰ってから何人かの人に「どうだったか?」と聞かれて、その度に僕は
「うーん、まあ、よかったよ」と歯切れの悪いことばかり答えていた。
具体性、ゼロ。
「食べ物はどうだった?」と聞かれて、「え?ああ、うまかったよ」と答える。
「治安悪いって聞くけど?」と言われて、「や、そんなことなかったよ」と答える。
オマエ本当に行ってたのか、何も印象に残ってないのか、と突っ込まれてもおかしくない。


印象に乏しかったのかというとそうでもない。
今でもはっきりと様々な光景/風景が頭の中に、心の中に焼き付いている。
朝早くに大通りで眺めた緑色のフォルクスワーゲンたち、その背後の公園に建っていた金属の大きな彫刻。
ティオティワカン遺跡へと向かう車の中で垣間見た、郊外の貧しき人々の密集する地域の、色とりどりの屋根。
月のピラミッドの頂上から眺めた、まっすぐに伸びる死者の道とその先の太陽のピラミッド。
そのときに吹き付けてきた、冷たくて気持ちのいい風。
道が分からなくて彷徨い歩いた高級住宅地の色鮮やかな壁。
冷え切ったコーラを買ってゴクゴクと飲み干す、喉を伝う炭酸のほろ苦い味。
いくらでもアトランダムにいろんなことを思い出せる。
壮大な風景から小さな煙草のパッケージまで、いろんなものが一瞬にして浮かび上がる。
その1つ1つを数え上げていったらキリがない。
そして今の僕はその1つ1つをうまく言い表す言葉が思いつかないだけ。


そう、僕は今回の旅を、その1コマ1コマを的確に描写して、
行ったことのない人にそのイメージを伝えるための簡潔な言葉を見出せないままでいた。
「行った人にしかわかんないよ」という一言で片付けるのは簡単だ。
実際に何度か僕はそんなふうに言い捨てた。
でも、できることならもっと具体的な何かを伝えたかった。
そしてそのことごとくがうまくいかなかった。
それが果たせないまま、この記憶は色褪せて朽ちていくのだろう。
・・・なんだかもったいない。
だけど、旅ってそもそもがそういうものじゃないか。
当事者にとっても、当事者じゃない人にとっても。


もう1回行きたいか?と聞かれたら、そりゃもちろん行きたい。
もっといろんな遺跡を、アメリカとの国境地帯を、
工芸品のような小さな村を、カンクンで過ごすリゾートな休日を、
メキシコ独立記念日で湧き上がる街並みを、もっともっと他のあちこちを、訪れてみたい。
行かなかった場所が多すぎた。
5日間もいたのに、あれこれ見て回ったはずなのに、
フリーダ・カーロの絵を、ディエゴ・リベラの壁画を、トロツキーの家を、
独立を勝ち取るまでの歴史を、地下鉄に乗って市民たちの生活を、
あれこれ見て回ったはずなのに、
僕の中では「なにもしなかった」という印象が強い。
(だから誰に対しても何もうまく語れない。挙げていくだけならばいくらでも可能なのに!)


僕の滞在していた日からは目と鼻の先にあった、独立記念日の祝祭的なムード。
実際には聞くことのなかった「ビバ!メヒコ!!」の声が僕の中でこだまする。
国立宮殿のディエゴ・リベラの壁画の中で描かれていた、メキシコの名も無き人々が
それぞれの存在の瞬間を見出してその時代を生きる。
絵画の枠をはみ出して、逃げ出して、それぞれの瞬間を生きる。
そして、果てしないパレードが始まる。
聖人たちが、荒くれ者が、スペインの貴族が、アメリカの兵士たちが、
アステカの原住民が、太陽の神が、サッカーのスーパースターが、
僕を呼び止めた警官が、無数の子供たちが・・・、
僕の目の前を、僕の中を、通り過ぎていく。
僕はそのときメキシコの中にいて、メキシコの外のどこでもない場所にいる。


そういう感触が僕に残されているという意味では、
僕は確かに1ヶ月前にメキシコという国を訪れた。