Survival Research Laboratories

SRL(Survival Research Laboratories)について書きたいと思うのだが、
何をどんなふうに書けばいいのか、どこから書き始めたらいいのかよくわからない。


僕が SRL とその主宰者マーク・ポーリンについて知ったのは
9月に名古屋に行って大学の先輩の家に泊まったときに
そのライヴパフォーマンスのサウンドトラックを見つけ
「なんかインダストリアルものっぽいですね」と興味を持ち、
99年の来日公演の際のドキュメンタリーのビデオの
ダビングにダビングにダビングを重ねたもの見せてもらったのがきっかけだ。
次の日に「夜想」という今は廃刊となった雑誌の短い特集を読んで
「この人はすごいな」「一本筋の通った表現者だ」と思い、
東京に帰ってすぐ、神保町の古本屋でこの「夜想」のバックナンバーを買いに行った。
タイミングのいいことに SRL がリリースしている DVD の日本盤が今年出たばかりで、
これも即オーダーした。アップリンクから出ていて、わざわざ金属のカバーに収められている。


何をする集団なのか?
東京公演では代々木公園に設えられた広々とした特設会場にて
「Pig Licker」「Woody Copter」「Bomb Loader」「Pitching Machine」といった名前の
奇怪な風貌のマシーンたちが炎と轟音を放ちながら蠢き回って
家をかたどったセットや他のマシーンたちへの攻撃を繰り返していた。
尽きることの無い殺戮。
知性/本能を持っているかのようで、盲目のようで、下手すると自らをも破壊しかねない。
そんなキチガイじみた巨大なマシーンたち。その饗宴。
辺りのものが破壊しつくされて、幕を閉じる。
パッケージには「世紀末マシーンサーカス」と書かれていた。
たった1度きり実現した来日公演には3000人の観客が集まったのだという。
ショーかと言われればショーなのであろうし、
前衛芸術かと言われれば前衛芸術なのであろう。
人を不快にさせたいのか?と聞かれたらそうなのだろうし、
興奮させたいのか?と聞かれたらそうなのだろう。
SRL はこういうパフォーマンを70年代の末から繰り広げてきた。
サンフランシスコをホームグラウンドとし、
80年代以後はヨーロッパにも遠征して公演を行うようになる。
その土地の政治・経済・文化的特徴や雰囲気を感じ取って、そのコンセプトに組み入れながら。
(なお、日本での公演のコンセプトは日本人的な計算し尽くされた振る舞いと
 計算し得ない事象への立ち向かい方、「娯楽」という概念の解釈の範囲みたいなこととなると
 インタビューで、事故で右手の指を失っているマーク・ポーリンが語っていた)


活動の最初の頃からこのようなたちによる機械たちの戦闘を行っていたのではなく、
もっと一般的に言って気持ちの悪い機械たちを作成して動かしていたようだ。
今のような精緻なシステムに基づいて滑らかに動くものではなく、
無数の歯車により稼動するような原始的な機械たち。
兎の頭部や牛や豚の死骸の皮が貼り付けられ、虫のように這い回る。
もしかしたらそこで終わったかもしれない。気持ちの悪いものを提示して終わるだけ、
若者の鬱屈した感情を「表現」ではなく「表出」しただけのもの。
この集団がすごいのは、彼らなりの信念を保ち続け、そのパフォーマンスを進化させていったことだ。
よりグロテスクに、よりメカニカルに、そして、より根源的なものへと。
この社会に対して問題提起を行い、その解決方法を提示することを目的として、
長い期間をかけた入念な準備の下に悪夢のようなサーカスを繰り広げるようになる。


機械とは産業と分かちがたく結びつき生産のために従事する、あくまで人間のために奉仕する存在である。
その発想を覆し、目的の無い機械たちを生み出しお互いを破壊させあうことで
この文明化社会に対して警鐘を鳴らす、アンチテーゼを唱える。
そういったところだろうか。分かりやすい理解としては。
常識とか社会的通念とかいったものをひっぺがし、せせら笑いながら
人間の心の奥底に潜んでいる歪んだ欲望を引きずり出す。
金網の向こうの観客たちのすぐ目の前までキャタピラや足をもった機械たちが近付く。
クレーンが宙をさらう。触手のような腕が伸ばされる。
我々を取り巻く「搾取」に関して警告が無数にプリントされたカードが舞い上がる。
サイレンが鳴らされ、火花が飛び散る。あちこちで炎が大きくなる。
機械たちはそのステージに用意されたとてつもなく大きな何かに対して
本能的な攻撃を繰り返し、破壊しつくし、燃え上がらせる。
この世界がいかに「危険な」ものであるかを様々なレベルで描く。
そしてそれと同時にいかに「滑稽な」ものであるかということも。
直接的な、機械から飛び散った金属の破片や噴煙のレベル。
あるいは、破壊衝動というものがいとも簡単にエンターテイメントと化してしまうこと。
提示されると人々はすぐにも飛びついて
それを見たいと思う欲望がいとも簡単に引き出され、満たされてしまう。
その欲望には際限が無いのだということ、
提示する側もどんどん容易にその行為をエスカレートさせてしまうのだということ。
そしてそれらの欲望の両方が、普段は隠すように社会や体制というものから要請されていて、
多くの従順な人々はそれに付き従っているのだということ。
少数の、社会の様々な階層の人々が体制のこちら側で反対側で欲望を解き放っているということ。
そういった物事の全て。
もう1度繰り返す。総じて、人間というものは滑稽な生き物だ。
機械にその姿を借りて大々的に華々しく演じなければ気付かされないものもある。


世の中の大半の人は目を背けたくなるのだろうけど、
残りの半分の人は嫌でも手のひらの隙間から覗き見たくなるのではないだろうか。
そしてあれこれ考えるのではないだろうか。
ある人は手間暇かけてこういう機械を作成して戦わせることのあほらしさかもしれないし、
格闘技の一種や現代芸術の亜流と思うかもしれない。
「楽しんで」終わるだけの人もいるかもしれない。
SRL はそこで何が得られるかということに対して人々に強制はしない。
(それは最もあってはならないことである)
そのパフォーマンスで与えられた情報の意味をわかりやすく解説してくれることなどない。
日々の生活では目にすることのないショッキングな体験を味わうことさえできれば、
それで十分なのかもしれない。
ショッキングな体験というものは必ず何かに結びついて、心の中のどこかを変えようとする。
潜在的な部分への影響をもたらす。ネガティブなものであれ、ポジティブなものであれ。
文明社会に対するコンセプチュアルなメッセージを絶えず発しつつも、
SRL がそういった Law / Low な部分をも意識して活動しているのは明らかだ。


煎じ詰めるとこの世界に存在するショーやエンターテイメントの多くが
その特性を強引に推し進めていくと SRL が提示しているものへと辿り着く。
どれだけのオブラートに包んでいたところで、人間の持つ歪んだ欲望がそれを突き破るようになる。
それをパフォーマンスとして表現するというのはコロンブスの卵的な発想であるし、
これまでに多くの人がそれを意識的に・無意識的に行ってきたはずだ。
しかしここまでの規模でそれを行っているのは SRL だけなのではないか。
そこのところがすごいと思わせる。


そしてそれを実現させるために、
東京公演の場合は「一見」普通に見えるアメリカ人たちが、
普段他の仕事を抱えているのだろうけど、スタッフとしてボランティアで参加していた。
溶接工やコンピュータのエンジニアや機械工学の専門家。
人間に敵意を感じているのか、大きなものを爆発させたいのか、
それともこの世に最後に残された前衛芸術に関わりたいのか。
ドキュメンタリーの中で彼らや彼女たちは淡々と異国の地東京で
日々機械の動作確認を行っていた。


1度見てみたいなあ。過激すぎてアメリカでも演じられなくなっているそうだ。
スタッフの1人が
「サンフランシスコのアンダーグラウンドカルチャーでは伝説、避けては通れない」と語っていた。
いつまで続くのだろう。どこまで進化するのだろう。


もしかしたら実際に見たらあほらしいのかもしれないけど・・・。