世界の果て、世界の終わり

その現象に最初気付いたのは、いつのことだったろう?
正確な日付を今となっては思い出すことができない。
春の始まりだったのかもしれないし、夏の終わりだったのかもしれない。
そんなこと、私にはもうどうだっていい。
とにかくそれは今に至るまで毎日、少しずつ、続いてきた。


最初になくなったのは、腕時計だった。
前の晩、確かに部屋の中のテーブルの上に置いた。
そのことだけははっきりと覚えている。
眠る前に無意識のうちに外したら、裏返しになってたので
わざわざベッドから出てひっくり返したのだ。
「これでよし」と私は思った。
いつものように私は、眠って、夢を見て、目を覚ました。


朝起きると、腕時計がなくなっていた。
「あれ・・・?」と思った。
「おかしいな」わざわざ口に出して呟いて、あちこち探し回った。
机の上、バッグの中、鏡の下。
犬を飼ってるわけでもないのに、
ひょいと入り込んで、くわえて、出て行ったのだろうか?
その日はそのまま会社に出かけた。


何かがおかしいと思ったのはそれから2・3日、
あるいは1週間ぐらいしてからだった。
腕時計がないとやっぱり不便だと思って駅ビルの中の時計屋に入った。
見渡してみる。・・・腕時計のコーナーが無い。
置時計や、壁掛けの時計や、あったとしても懐中時計。
「そういう店なんだな・・・」と思ってその日は店を出た。
他の用事があって時間が無かったから、それ以上探さなかった。


さらに何日かが過ぎて、都心に出たときにまた別の店に入った。
やはり腕時計が無い。
今度は店の人に聞いてみた。
まだ40ぐらいなのに、白髪で真っ白になった人だった。
「腕時計?」と聞かれた。「腕に巻くんですか?」
「・・・? いえ、腕時計・・・。手首に巻くんですけど」
「へー。珍しいものですね。外国製ですか?」
からかわれてるんじゃないかと思って、私はむしろ、不愉快になった。
親切そうな人なのに。ばかにしてる。何も言わずに店を出た。


その後すぐ学生時代からの友達と待ち合わせしていたので、
会ってカフェに入ってこのことを話してみると、ふーんと不思議そうな顔つきをされた。
「そういうのあると、便利かもしれないね。いいアイデア。売れるよ!きっと」
ねえ、何を言ってるの?
あなただってしてたでしょ?
誕生日に彼氏にもらったって、自慢してたじゃない。何度も何度も見せたじゃない。
見ると、右手の手首は華奢な銀色のブレスレットがあるだけだった。
「・・・どうしたの?」と私は言った。
彼女は「え?何が?」と答えた。
その瞬間、私は全てを理解した。
ガラスの向こうの街を行く人たちや帰りの電車に乗っている人たち。
腕時計をしている人は1人もいなかった。
この世界から、腕時計というものが消えてしまったのだ。


その日私は部屋に戻ると、薄気味悪い思いをしながら、あちこちを眺め回した。
何かがおかしい。何かが今までと違う。
何かが、いつもの位置にない。何かが足りない。
消えてなくなっている。
その日わかっただけでも次のようなものがこの世界から消えてなくなっていた。
(震える字で、私はメモを取っていた)
切手、イチゴ、消しゴム、凧・・・。
(驚いたことに「凧」はまだ小さい姉の子を写した写真の中から消えていた)
そのときには既に、空に浮かぶ月ですら姿を消していた。


1度気がついてしまうとそこから先は話が早かった。
1日に1つずつ、目が覚めるたびに「物」が消えていく。この世界から消滅する。
ある朝、テーブルというものがなくなった。
あの腕時計を乗せていた、デンマーク製の木でできた小さな、丸いテーブル。
そして魚が消えた。浴槽が消えた。バラの花が消えた。
地下鉄が無くなって、ラジオがなくなって、お金というものが無くなった。
物だけじゃなくて、もっと抽象的なものも消えてなくなった。
恋人が消えた。赤い色が消えた。歌が歌われなくなった。


星が消えた。海が消えた。太陽も無くなった。
みんなみんな、いなくなってしまった。
ある朝私は1人きりになって、部屋というものもなくなっていた。
(それまでに時間という概念もなくなっていた。
 私は他にすることもなく。眠る/起きるを繰り返した)
1つずつ奪われ、剥ぎ取られ、ふっと掻き消えて、
手のひらの隙間から、私の視界から、何もかもが消えてなくなった。


そして私は今1人きりで、たった1つ残されたベッドの上、
真っ白な空間に浮かんでいた。
何の物音もしない。私と、ベッドだけ。
いや、空気がまだ残されてるか。あと、光というもの?
手を伸ばしてもそこには何もない。
声を出そうとしても、声も聞こえない。


明日になればベッドが消えてなくなって、
この真っ白な中を私は漂っているのだろうか?
もしかしたら消えてなくなるのは私のほうであって、
このねずみ色のベッドがポツンと取り残されるのだろうか。
私はその光景を、思い描いてみた。


こんなふうに、世界は終わってしまうのか。
ベッドの背もたれに体をもたせかけて、目を閉じた。
私は思い出の中に入っていく。
たくさんの思い出が残されていて、その1つ1つを数え上げていく。
さよなら。いろんな人に、いろんな物に、私はさよならを告げていく。
アーモンドの入ったチョコレート、小さなころの写真を貼ったアルバム、
初めてのアルバイトで買ったテニスのラケット、
中学生から使い続けたプラスチックのペンケース、
友人から誕生日のプレゼントにもらったクマのぬいぐるみ、・・・


みんなみんな、どこに行ってしまったのだろう?
次に目を覚ましたときには私もそこにいるのだろうか?
だったらいいな。・・・


だけど今、私は、みんなにさよならを。
・・・言おうとしてる。
目を閉じて。


ハロー。
ここは世界の果て。
私と、私を乗せたベッドだけ。
真っ白な空間を、たった1人漂っている。


ハロー。
聞こえますか・・・。