ポール・オースター 「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」

ポール・オースターの新作、
「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」の翻訳が出た。
でもこれは純粋な新作ではなく、むしろ編著の類い。
オースターが全米から「実話に基づいた物語」を募り、
朗読するというラジオ番組があって、これはその内容を1冊にまとめたもの。
書くのが上手な人もいれば、上手に書こうとして逆にぎこちなくなっている人もいる。
そんなこと眼中に無く、自分の書ける範囲で何の飾りも無く書いている人もいる。
たくさんの人々のたくさんの物語。
本そのものが分厚くて重いってのもあるけど、
それ以上にこの1冊はずしりとした手ごたえがある。


リスナーから寄せられた「物語」の1つ1つに目を通し、
取捨選択を繰り返していくというのは
非常につらい作業、肉体的にも精神的にも困難な作業だったと思われる。
オースターはそれを1年にわたって続けた。
そしてここにアメリカという国の(ある側面から切り取った)姿、というか
シルエット/輪郭が(無数の点描により)描かれることになった。
「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」というタイトルは最初大げさに思えるが、
読んでみるとちっともそんなことはない。

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ラジオに寄せられた話となると
こういうの日本だと奇抜な失敗談的なものを想像しがちだけど、
寄せられたのはアメリカの名も無き人々の名も無き声により綴られた
日常生活での出来事。オチも教訓も無い。
奇妙な偶然の一致により彩られた人生のファニーな断片といった趣のものも確かにあるが、
その多くは、その人の心の中に焼きついた
長い人生の中でのたった一瞬のイメージ、その淡々とした描写でしかない。
例を挙げるならば、
兄の死亡通知を受け取った戦時中のある日、
「私」には夕暮に染まる台所がどんなふうに見えたか。
など。


文章というものがいかにして「真実」を汲み取るか。
どれぐらい汲み取れるものなのか。
これは長い間文学の課題だった。
ノンフィクションとされ、実際の出来事を取り扱ったとしても
言葉に、文字に置き換えられた時点で
程度の差はあれ、フィクションと成り果ててしまう。
そこからいかにして逃れるか。


ポール・オースターの小説(特に初期のニューヨーク三部作)は
そこのところに非常に意識的で、
「フィクションの構造とはいかなるものか」について真剣に悩み、
あーでもないこーでもないと文学的な実験を繰り返した。
そして彼は結局のところ、単純な「物語」そのものに回帰していった。


「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」は自分が書いたものではないとはいえ、
そこにははっきりとオースターの声が聞こえ、オースターの視点/視線が垣間見える。
文学において真実を描くことの1つの回答、
あるいは回答のヒントを得たのではないかと思う。


真実はやはり、その瞬間を生きた人にしか描けない。
例えそれがその人の主観に基づいた真実であるとしても。



ナショナル・ストーリー・プロジェクト

ナショナル・ストーリー・プロジェクト