才能論

mixi で高校時代の友達が
「結局は何事も才能のあるやつが勝つようになってるのか・・・」
というような発言をしていた。


それに対して僕はこんなふうに返した。


「そうだな。僕もそう思う。
 ただし、いろいろ留保事項はある。
 その留保事項について語りだすとキリがない」


じゃあ、その留保事項ってなによ?という展開になる。当然のごとく。


「才能」の定義はひとまず置いといて、
まず論点として言えることは


・何をするための才能か。
(世の中の大多数の人々が望む/望まないに関わらず、
 「普通」の職業に就いて「普通」の生活を送らざるをえない。
 そこから抜け出すための、アートやスポーツ関係の才能のことか)

・その目的を達するために
 その「才能」ってやつがどれぐらい必要とされるのか。


前人未到の100%の、1000年に1人クラスの才能。
とてつもないものを生み出して歴史に名を残したい。
そういう才能限定の話なのか、それとも
ここ10年ぐらいそのジャンルにおいて
それなりに注目を浴びたり評価を受けたりして
そのジャンルの中の人として暮らすことが望みなのか。
だったらそんなにたくさんのものは必要ない。
「才能」「センス」とされるエッセンスはほんのちょっとだけでよくて、
後は努力や運や人とのつながりで案外何とかなりそうだ。


で、もし1000年に1人の「天才」とはいかなくても
10年単位の「先駆者」になりたいのならば、
たぶん才能のあるなしでクヨクヨしてるよりは
自分の作りたいものを作ったり、それを世に売り込んだりすることに
時間とパワーを使っている方がいい。
そこには十分、「努力」の報われる範囲が残されている。
コネを作ることも、運を呼び込むためにあれこれすることも、みんな努力に当てはまる。


そもそもの才能のあるなしと
自分にどれだけ才能の元があって、どれだけそれを磨けるかってのは別の話であって。
いきなり「全世界の人が恐れおののくぐらいのものが俺は欲しいんだ」
っていうんではないでしょ?
小さくとも才能らしきものがあったらなんとかしてそれを大事にして育てていけばいい。
圧倒的に才能のある人と自分とを比べたときに、
その途端自分の才能がゼロになるわけではない。


この年になって世の中のことで分かってきたのは
松井、イチロークラスの華々しい人はやはり一握りだけど、
それ以外の人たちはみな凡人かというとそんなことはなくて、
何百万単位の大勢の人の目に触れることこそないものの
その才能を発揮して孤高の表現をモノにしていたり、
その分野では評価されているという人は大勢いる。
まずはそこを目指すべきなんじゃないかな。
そしてそこから先また高いところへと登っていく。
世間一般に言われる「才能」ってのは
その登っていくスピードとその登り方の奇抜さにあるんだけど、
そしてそこに気を取られて僕らは「才能があっていいな・・・」と悔しがるんだけど、
人より時間がかかっても結果としてその高みに多少なりとも近付くことができて、
他の人が見えない「何か」を自分なりに見れたらそれでいいんじゃないかな。


だから、才能が足りなくても続けていくだけ。
諦めずに一歩一歩進んでいくだけ。


あと、確かに圧倒的な才能を目の前にして
「負けた」「このジャンルで僕が入り込む余地がない」と思う瞬間は多々あるけど、
その圧倒的な才能の人の生み出すものを楽しむだけの
心の余裕が大事なのはないかと最近思う。
そういう人と我が身を比べて卑屈になっていたりしたら
自分の中の小さな才能も磨けなくなってしまう。


こういう考え方をしている僕って無邪気なのかな。
世の中で揉まれてなくて、会社員で生活は保障されていて、
土日好きなように作品を作っているがゆえの甘え・・・。


とにかく、よほどの味覚音痴や方向音痴でもない限り
続けてさえいればいつかは世に出られるとは思う。ひっそりとではあっても。
だから、僕なんかは淡々と続けていくだけ。
何かを志して、結局それが果たせなかった人というのは
才能が無かったのではなくて、
辛抱が足りなくて諦めが早かっただけだけなのではないか。


世の中で情け容赦ない目に遭ったり、裏切られたり、
肉体的・精神的に損傷を与えられ
続けていくことができなくなった人たちは大勢いると思う。
だけど全員が全員そういう目に遭うわけではない。
五体満足であるならば、何が何でも続けていくべき。