通勤途中にツラツラと考えたこと

ナチュラルに目が覚めて、外が明るい。なのに目覚まし時計が鳴ってない。
見ると昨日の夜セットした時点で止まってしまっている。
(電池を入れるところがゆるくて外れたんだろうな)
「うわっ、やっべー」と慌ててロフトから降りてテレビをつけてみる。
7時ちょうど。9時過ぎかと思ったら全然そんなことはなかった。。
いつもより1時間遅かっただけ。
こんなんで毎日起きれるならもう目覚ましいらないやん、と思う。
僕はなんて健康的なんだろう。


そんなわけで、以下、
朝の丸の内線とその後の都営新宿線にてツラツラと考えたこと。

    • -

「英語を話せると10億人と話せる」みたいなことが英会話学校の広告に書かれている。
誰が言ったことだったか忘れたが、
「でも日本語が話せたからと言って1億人と話せるわけじゃないじゃん」
非常にもっともだと思う。グウの音も出ない。
言葉を知っていることと具体的に人と出会う・接するということは全然別の次元の話だ。


じゃあ、この僕は生きていく上で何人の人と話せるのだろうか?と考える。
1000人・2000人だろうか。
それともなんだかんだ言って1万人を超えるのだろうか?
誰かこういうの統計とってないものだろうか?


延べ人数だったら、そりゃ毎日多くの人と話をしているはずだ。
でも、その日初めて会話を交わす人となるとグッと減る。
その場限りのコンビニの店員であれ、仕事で名刺交換した人であれ。
「新しい人」と話すことのない日が何日も続く、ってことはざらだろう。
そう考えたとき、「日々同じ人と会って話している」つうか
「日々同じ人としか接しない」ことの重みがなんとなくわかってくる。
ある種の機会損失なわけである。


もちろん、その生涯において
100人としか人と言葉を交わさなかった人と10万人と接した人の間で
「どちらが幸福だったのか?」ってことは全然計りようがないんだけどね。


1億人と話す、に戻る。
どういう職業が最も多くの日本人と話すことになるのだろう?
総理大臣?日本国の代表として。・・・そんなわけがない。
役所の窓口とか、デパートの店員とかタクシーの運転手とか、そういうとこか。


こういう職業は大変だ。
いきなりわけわかんない人が現れてわけわかんないこと言い出して
勝手にわめき散らすことに多々遭遇するわけだよな。
僕には無理だ。
こういうキチガイみたいな人の応対をしている方を町で見かけることが時々あるけど、
自分が直接関わってるわけではないのにものすごくブルーになる。
その日一日鬱々として過ごすことになる。


医者もそういう職業だよな。
昨日も「ちっともよくなんねえよ」って不平を言ってるのが聞こえたけど
そんなこと医者に言ってもな・・・。
数多くの人に日々接して治っただの治らないだの言われてるわけである。
その心理的負担の大きさを想像してみると、はー・・・、他人事ながら途方にくれる。
医者という職業がまず大学として狭き門で、入ってからも勉強勉強、
国家試験に合格しても勉強勉強、開業してからもあれこれ続くのは当然だよな。
頭が下がる。ほんの少しでもパーセンテージを上げる、
って努力をしないとたぶん気が休まらないのだと思う。


そういえば僕の通っている整形外科は
大きなビルの中に用意されている小さな診療所みたいなものなので
曜日によって先生が違ってて、たぶん何かしら本業を持ってて、
副業としてなのかそれとも何かしらのしがらみなのか、
とにかくどこかしらから年配の整形外科の医者が通ってきている。


僕は見てもらう日を決めててこの先生に、と毎回同じなんだけど
人によっては通う都合上全くばらばらになるのだろう。
そう、カルテは毎回別の医者が書いていることになる。
「読めるのだろうか?」といつも不思議に思う。
ドイツ語の筆記体
あれは別にドイツ語で詩や散文を書いてるわけではなく
ただの箇条書きのメモなので記号の群れのようなもの、
「翻訳」できなくて困るということはない、そんな話を聞いたことがある。


そうは言っても他人のメモって読んでも意味不明なこと多いじゃないですか。
会社で読む伝言メモの、他人に渡す前の自分のためだけの走り書きとか。
買い物メモの言葉のはしょり方とか。「バラ」って花じゃなくて豚肉なわけですよ。
人それぞれ独特。
それが医者の世界にもあるのではないか?
・・・ないからやっていけてんだろうけど。


でも、ほんと気になる。読み間違えてない?
実際のところ、こういう日替わりで診察者の替わる診療所なら
それぞれの医者が気を使ってカルテ書いてるから間違いはないのだと思う。
逆に、1人で開業医を何十年もやってるベテランなら
いつのまにか他の医者が読んでも何のことやらさっぱりわからないようなカルテを
書いてたりするのではないか?中にはそういう人もいるのではないか?


メモとしてわかりづらい以前に字が汚い人とか。
ドイツ語の筆記体のはずなのにどこの国の言葉なのかわからん、っていう。
そういう人いるんだろうな。
字のきれいさは大事だ。人として。


僕はこれまでの人生でどこに行っても
「アナタが一番字が汚い」という扱いを受けてきた。
幼少時代、親から一番怒られたことは書き取りの宿題の字の粗末さだった。
これはもうどうしようもない。今更きれいにはならない。
どうしたらいいんだろう?
漢字の書き取りからまた始めればいいんだろうか?


別冊マーガレットとかそういう少女漫画の裏表紙に
日ペンの美子ちゃん」の広告(まだ健在なのだろうか?)が載ってて、
ペン習字の入会者にはもれなく、カシャカシャと指ではじくだけで
字がきれいになるという魔法のような器具がプレゼントされていたように思う。
もしそれで本当に字がきれいになるのなら、小学校の教育の一環として配るべきだよな。
どうしてそういう気の利いたことをしてくれないのだろう。文部省は。
テレビを見ながらカシャカシャやってるだけで字がきれいになるのである。
なんなんだろう。科学的な実証がないから?
そもそも、あれってどういう仕組みで字がうまくなるのだろう。
・・・結局気休めに過ぎないのだろうか。


そうだ、その手の
「なんでそんなすごいものなら、もっと世の中に普及しないのだろう?」
の最たるものとして「速読法」がある。
あれ、すごいよな。常人の何倍ものスピードで本が読めるなんて。
これこそまず小学校や中学校で教えるべきだ。
日本人のノーベル賞受賞者を何年までに何年という目標を立てるのなら、
まずはこういうところから下地を作るべきだ。
本ですよ、本。本をたくさん読むところから学力は形作られる。
・・・ま、そんな多くの人が実践してないってことは
特殊な健康法の一種みたいなものなんだろうな。


あと、イングリッシュ・アドベンチャーってやつ。
オーソン・ウェルズの朗読する「家出のドリッピー」
あれ1度聞いてみたい。誰か持ってないだろうか?
あれだけ新聞で見かけるのに、
しかも少なくとも僕が中学生の頃からにはあったから
20年近く続いているもののはずなのに、
あれを持ってる人って身の回りで見たことがない。
(この話、前にも書いたような気がする)


高校時代の文化祭で寸劇をやらなくてはいけなくて、
放課後集まって机の上に座って黒板の前であれこれ考えていた。
そのとき出てきたのが「出家のドリッピー」
ドリッピーが出家するんですよ。家出じゃなくて。
誰一人として「ドリッピー」が何者なのか知らなかったのに、
一生懸命になってストーリーを考えてた。
若いっていいわ。

    • -

こんなわけで。キリないからやめます。
読み返してみて、自分でもあきれるぐらいまとまりがない・・・。


行きも帰りもビジネス書を読んでいるサラリーマンって
いったい何を考えているものなのだろう?