赤い靴

その日、早く帰ることができたので、
オフィスを出ると私は、いつもと反対の方角に向かって歩き出した。
通勤に利用しているのとは別の、もう1つの駅。
階段を下りていって、改札をくぐって、ホームに立つ。
並んでいる列の最後尾に私も加わる。
アナウンスがあって、すぐにも地下鉄が入ってくる。乗り込む。
手摺につかまって、目を閉じた。
みんなでコンビニに買いに行って、夕方に食べたアイスのことを考えた。
どんな味だったのか、私は、忘れてしまっていた。


ショーウインドーをあれこれと眺めていると、靴屋の前で足が止まった。
「そうだ、靴を買いたい」そんなことを思った。
たくさんの靴の中から、なぜか真っ赤なピンヒールが気になった。
いつもの私はそういうの、履くことがない。
週末も、もちろん平日のオフィスにも。
気がつくと私はサイズを試していて、
狭いフロアを小さく円を描くようにして何度か歩いて、
カードで支払いを済ませていた。
私は、靴の入った大きな箱、その箱の入った大きな袋を、
誰かにあげるケーキのように、大事そうに抱えて、アパートまで帰って来た。
心の中で私は、クスクスと笑っていた。


テーブルの上を片付けて、買ったばかりの靴を飾る。
クッションの上にペタリと腰を下ろして、それを眺めた。


赤い靴。


いつのまにか私は、小声でそっと童謡を口ずさんでいた。
「イージンサン」ってどんな人なのだろう?
小さい頃ずっと気になっていて、
大人になってからも、時々ふっと思い出すことがあった。
私の中には、遠い国から来た、牧師のような人のイメージがあった。
黒い服を着ていて、にこやかな、だけど陰りのある笑顔を浮かべている。
これは、隣に住んでいた子が、私と違って、
キリスト教の幼稚園に通っていたからかもしれない。
(ミヨちゃんは今、どこで、どうしているのだろう?)


私は1度だけだけど、その幼稚園に行ったことがある。
クリスマスの前だろうか、とにかく冬のことだった。
おぼろげな記憶の中、そこではバザーのような催し物があって、
幼稚園の生徒たちによる、素朴な劇が披露されていた。
見知らぬ場所が怖かったから、私はお母さんの手をぎゅっと握ったままだった。
迷い込んだどこかの部屋は薄暗くて、かすかに賛美歌が聞こえてきた。


そういった記憶が、「イージンサン」と結びついている。
そうだ、私も遠くに連れ去られてしまうのだ、
お母さんからも、お父さんからも引き離されて、1人きりで、連れて行かれるのだ、
ある日突然、そういうことに「気づいた」私は、泣きだした。
ワンワンと大きな声で、泣きだした。


赤い靴。
真っ赤なピンヒール。
私はゆっくり時間をかけて箱の中にしまって、
部屋の中を見渡して、差し当たり、押入れの奥にしまった。
とりあえず、明日さっそく履く、ということはないだろう。
この靴に合うような服を、私は持ってないってこともあるし。


赤い靴を履いた私は、女の子に戻っている。
夕暮れ。見知らぬ街の見知らぬ公園で、私は、ブランコに揺られている。
誰かが来るのを待っている。
お母さんなのかもしれないし、イージンサンかもしれない。
1人きりで寂しくなった私は、声をかけられたら、
誰にでもついていってしまうだろう。
今の私ですら想像のつかないような、遠い異国の地。


私は、連れ去られてきた、同じような女の子たちと、
大きな、寮のような場所で暮らし始めて、
その国の食べ物を食べて、その国の言葉を覚え、
集められて、その国の歌を歌うのだろう。
そして、年を重ねて、大人になっていく。
その国の男の人と出会い、
(私と同様に連れ去れてきた人かもしれないし、もともとその国の人かもしれない)
休みの日には公園に出かけたりして、
やがて一緒に暮らすようになり、子供が生まれる。
そしてその子が、ある日ブランコに揺られていると、
また別の遠い国のイージンサンが現れて、その子を連れ去っていく。


そんなことを考えた。
とりとめもなく。
そしてそれ以上のことは考えないようにした。遮った。
テレビをつけて、眺めた。
くだらないことばかりやってて、笑ってしまった。
時間が来て、眠りについた。


夢の中で私は、知らない国の歌を、1人で、
どこか見知らぬ場所で、歌っていた。
赤い靴を履いて。