ソーシャルアート、その可能性

3月の暇な時期に会社の先輩と WEB2.0 についてあれこれ話しているときに、
その実現するものとして何があるだろうか?ってことで
新しいタイプのコミュニティが生み出されるのではないか、
その実践の一形態として「ソーシャルアート」があるのではないか、
という議論がなされた。


先輩からは「アートという戦場 ソーシャルアート入門」(フィルムアート社)
という本を見せてもらい、すぐ自分も買いに行った。
冒頭にてソーシャルアートの定義が書かれていた。引用します。

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「社会のなかには、詩によってしか解決できないものがある」
これは、ロシアのフォルマリスト、ウラジミール・マヤコフスキーの言葉です。
社会には、詩=アートでしか解決できないものが存在する、と彼は考えたのです。
(中略)
ソーシャルアートとは、作品作りと並走しながら大衆(オーディエンス)を
巻き込んでいくダイナミックな社会づくりなのです」

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こういった宣言の是非について考えてみたり、
具体的な「作品」についてあれこれ本の中からピックアップするのは
長くなりそうなのでやめときますが、
一箇所だけ、僕の心に触れたトピックを紹介したいと思います。

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イタリアのアーティストで、以前ベルギー、ゲントの町で行なわれていた展覧会
「Over the edge」に参加していたアルベルト・ガルッティ(Alberto Garutti)は、
ゲントの病院と繋がった公園の中の街燈のいくつかが、
病院からの新生児誕生の知らせと同時に、
うっすらと一時的に光り輝くシステムの作品をつくりました。
実際にその場でその光景を目にしたとき、
ひとつの「希望のアート」であると思いました。
その記憶は、最近の自然災害が多発しているホープレスな世界状況の中で、
われわれが唯一希望を持てるかもしれないと信じられるわずかばかりの場所として、
アートのソーシャルなフィールドがあるのだと感じさせてくれました。


(p.128 現代美術家川俣正氏の文章より)

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これ、素晴らしくないですか?
光景を思い描いてみてほしいです。


この風景がラストシーンとなる映画を作れたらな、と思った。
人が人として生きることの意味を問いかけ続け、思い悩み、
他人を傷つけ、自らも傷ついた主人公が
彷徨の果てに一人きり最期にたどり着く場所がこの街燈の下。
そっと包み込むように明かりが灯される。
赦しを与えるかのように。
そして観客はこの世界に生を受けた、
新しい生命のことを一つの祝福のように考える。


人は一人で生きているのではないのだということ。
ごくごく当たり前のことのはずなんだけど、実感することは少ない。
見知らぬ誰かともどこかで繋がっている。かすかに触れ合うことだってあるかもしれない。
その可能性に思いを巡らし、開かれてゆくこと。
そんなふうに生きていけたらいいな、と思った。