「世界の優しい無関心」

昨日の続き。具体的な話。
タイトルは「世界の優しい無関心」とすることにした。
僕が思いついたのではなく、元々の出所はカミュの「異邦人」のラストの一節。
これを見つけて自分の自主映画のタイトルにしたのが、映画サークル「映創会」の後輩。
(ちなみにこの作品は「ぴあフィルムフェスティバル」で入選した)
僕は今から10年も前にこのタイトルに出会って、ずっといいなあと思ってきた。
素敵なタイトルじゃないですか。
最初は単なる言葉の連なりとしていいなあと思っていた。
だけど、最近になってこの言葉の持つ意味がわかってきた。
今なら「世界の優しい無関心」をテーマに書けるんじゃないかと思うようになった。
(後輩にはまだOKもらってないけど)


つまるところ小説としては主人公がこの言葉、
カミュのこのフレーズに出会って
自分なりにあれこれ考えて結論(というか思った / 感じたこと)を導き出して、
最終的な行動に出るわけである。
ストーリーは、というか作者の思考はこれを最終目標として突き進むことになる。
この社会で生きていくとはいったいどういうことなのか?
何を差し出して、何を受け取るのか?
この世界とはどういうものなのか?
我々はどういうものに包みこまれているのか?
そう、それが「世界の優しい無関心」に集約される。
「冷たい」無関心なのではない。あくまで「優しい」なのである。
良くも悪くも我々はそれぞれが1人きりであって、
その孤独がどうしようもないことになったとき、
僕らを包み込み、導き、許すものが僕らの知らないどこかにあるのだ、ということ。
あるいは、そっとしといてくれるのだ、ということ。


その一方で。
この世界を動かす目に見えない大きなシステムがあって、
表向きは人と人とのつながりとしての「世界」から
疎外されているように感じるということ。
だけどその中にしっかりと組み込まれているのだということ。


孤独、疎外感が人生への不安へとつながっていく。
同じような仲間を見つけて、小さな群れを作るようになる。
しかしそこにも、システム、この世界のルールが入り込む。入り込んでいる。
群れは、崩壊する、あるいはより大きな群れに吸収される。


人によってはそこに人生というものに対する無力感を得るかもしれない。
昔からの夢を諦めるかもしれない。


東京と、その生活の中で。


諦めたら、そこには何があるのだろうか?
諦めなかったら、そこには何があるのだろうか?

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主人公は学生時代に映画サークルにいて、今は普通の会社で働いている。
29歳にして、人生こんなことでいいのかと思う。日々悩んでいる。
なのにやりたいことが見つからない。
日々流されている。


ちょっとしたきっかけを元に
当時映画サークルに属していた何人かが1つの家の中で共同生活を始める。
行きがかり上、主人公もそこに関わるようになる。
映画サークルの友人の中には今でも諦めずに撮り続けているのがいて、
その生活を追ったドキュメンタリーを撮り始める。


映画の破綻、共同生活の破綻。
あるものはそこに留まり、あるものは新しい場所を見つけて飛び出していく。
そんな中、主人公の見つけるものは?

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ストーリーの概略そのものは単純で、登場人物もはっきりしているのに、
テーマとの結びつきが難しい、というわけです。