世界の終わる日

この世界が「音」というものを失って、これでもう5年になる。
いつだろうと、どこへ行こうと、何も聞こえない。
地平線の向こう側、世界の果てに至るまで、物音1つしない。
そこには果てしない沈黙だけが広がっている。
叫んでも、囁いても、誰の耳にも届かない。


最初の混乱した時期を過ぎて、
僕らもいつのまにかこの世界の新しい秩序に慣れてしまっていた。
日常生活は何事もなかったかのように淡々と営まれている。
ノートに文字を書き、身振り手振りが加わって、意思を伝える。
手段が変わったというだけであって
僕らはコミュニケーションの権利まで奪われたわけではない。
今日もまた無言でバスは通り過ぎ、通りの向こう側から恋人たちは手を振り合う。
スーパーマーケットでは特売の商品が売られ、高層ビルの一室で国際会議が行われる。
にこやかに握手が交わされ、その模様は通信衛星を通じて全世界に配信される。
僕はその中継の映っていたテレビを消して、音のないシャワーを浴びる。
そして娘の頬を突付き、かすかに笑って「おやすみ」と伝えた。
静かに、静かに、全ての物事が進んでいく。


かつてそこに音というものがあったことを、
時として忘れてしまうことがある。
そしてそれが何日も何週間も続く。
しかしその存在は僕らの遠い記憶の底で、
いつだってかすかに、かすかに揺らめいている。
時々僕らは寂しく思う。
悲しそうな表情を浮かべて、
嘆くように首を振ってみたり、肩をすくめたりしてみせる。

    • -

ある日、空は宇宙船でいっぱいになり、異星人がメッセージを送ってきた。
「地球ヲ侵略スル」「人類ハ抹殺スル」と。
各国政府は全速力で最終戦争に供えた。
ミサイルが配備され、潜水艦が海底を駆け巡った。
人類は異星人たちと対峙しあった。緊迫した日々が何日も続いた。
しかし異星人たちはこれといって何もすることなく、宇宙船とともに去った。
そしてその次の日、夜空を流れ星が覆い尽くした。
目覚めると僕らは、聴覚を失っていた。


これが、第一弾の攻撃なのではないかと誰もが考えた。
聴覚を失うことで防ぐことのできなくなるもの。次にそれが続く。
しかしその後何週間、何ヶ月と経過したところで、何も起きなかった。
秩序は少しずつ回復し、日々の暮らしがそれに適応する。
警戒のレベルが下がっていく。
「人類の滅亡が免れて、その代わりに聴覚を差し出したのだから、それでよいではないか」
そういうムードの論調が支配的となった。

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今では僕も思う。
いや、攻撃は一度きりだった、しかしそれが永遠に続いているのだと。


僕らの暮らしは続いている。
何事もなかったかのように続いている。
しかしそれはかなりなところ生気を欠いたものとなった。
意志の疎通が困難になったというだけではない。
娯楽の大半が意味を成さないものとなった。
夏祭りの笛や太鼓の拍子がなくなれば踊る人もいなくなる。
これはディスコにしたって同じことだ。
ステージは撤去された。楽器の多くが集められて、火をつけて焼かれた。
人々の娯楽は今や、音のないスポーツを観戦するか、あるいは麻薬の類に耽溺するか。
外界をシャットダウンして内面に入っていくことが最も有効なのだから、
アルコールに始まり、大人も子供も
なんらかの形態の麻薬を入手して地下室の片隅で物憂い時間を過ごしていた。


日々の暮らしは単調なものとなる。起伏に乏しくなる。
科学上の新しい発見であるとか新しい理論であるとか、画期的な新製品であるとか。
そういうのを求める気持ちもしらじらしくなる。
社会は停滞する。
何をどうしたところで、歌い、笑い、愛を囁きあった昔の日々は元に戻らないのだ。
往時の繁栄を忘れ、衰退していくより他ないのだろう。


象徴的なのは赤ん坊の生まれるときだ。
生まれてきたばかりの赤ん坊は激しく泣き叫ぶ。
しかしその声は両親には聞こえることがない。
命が命であることの証が空虚なものとなる。
そして、今後生まれてくる子供たちは誰もが、
生まれながらにして「音」というものの存在を知らないのだ。
その人類共通の記憶を分かち合うことは永遠にないのだ。
大人たちは、ゾッとした気持ちになった。
人類の新しい世代。その最年長はこれで5歳になる。
彼ら/彼女たちは声の伴わない笑顔を、
ごくごく自然に、周りの人たちに対して向ける。ニコッと笑う。
そしてその唇はそれ以上のことを語ろうとしない。

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この世界が「音」というものを失って、これでもう5年になる。


これがあと100年後も、1000年も続いていくのだ。
人類が存在していけるとして。


僕は娘の手を引いて、マンションを出て、地下鉄に乗って、川原へと向かった。
空いているベンチを見つけて、娘と並んで腰を下ろした。
少年たちがサッカーをしていた。
自転車に乗った親子が競争していた。
僕が子供の頃と何も変わらなかった。
小さなメモ帳と銀色のボールペンを取り出して娘が何かを書く。そして差し出す。
そこにはこんなことが書いてあった。
「泣いてるの?」


娘はボールペンとメモ帳を差し出す。
だけど僕は受け取らなかった。
僕は娘の頭をそっと抱きかかえた。
そしてビルの向こうに夕日が沈んでいくのを、眺めた。