「無料でハグします」

日曜の夕方。神保町からの帰り道。
都営新宿線を新宿で下りて西口の京王モールの地下道を
東口の丸の内線の乗り場へと向かう。
その途中で西口地下広場に差し掛かると、20代前半と思われる男性が
白の大きな画用紙に黒のマジックで
「無料でハグします」と書いたものを掲げて立っていた。


なんなのだろう?と思った。
新宿駅周辺ではおかしな格好をした人を時々見かけるが、そういうのの類なのだろうか?


ケミカル系のジーパンにイトーヨーカドーで買ったようなシャツにリュックサック。
顔は例えて言うならばホリエモンで、つまるところかっこよくはない。
垢抜けた雰囲気はなし。つい先月田舎から出てきました、って風情。
もっと正確に言うと、東京に来てもう2・3年にはなるけど
自分という存在が変わっていく必然性をなにも感じていない、というか。
それでも彼は真剣な表情で立っていた。愛想笑いを浮かべるでもなく。
見てはいけないものを見てしまった、と僕は思った。


頼んだらハグしてくれたのだろうか?(もちろん嫌だけど)
なんかの罰ゲームか、あるいはビデオ作品の収録だったのか?


もてなくてもてなくて、もてたくてもてたくて、
1人四畳半の部屋で悶々と思い詰めた果てに女性と触れ合える機会を見出したくて、
東京は人口が多いから呼びかけに応じてくれる優しい
(というか、彼には悪いが、変な)女性もいるのではないかと考え、
ああいう挙動に出たのではないか。
僕としてはそういう結論に達した。暴走する下心の表れ。


違うのかもしれない。
純粋に「ハグ」がしたかったのかもしれない。
都会に住む人たちは心が荒んでいる。それを僕の抱擁で癒してあげたい。
「あげたい」どころの話じゃない。
僕のこの地球上での役目は、積極的に人々を癒すということにある。
そういう人だったのかもしれない。
だとしたら、とても痛々しかった。誰かが目を覚ましてあげるべきだった。
少なくとも彼には、そういう大人物のオーラはなかった。


まあ、とにもかくにも余りにも異様な雰囲気を醸し出していた。
写真に撮っておけばよかった。
もちろん、あれだけの雑踏を誇る広場なのに、
彼の周り半径3mは人の姿が全くなかった。
人々は見てみぬフリをして、避けて通っていた。


お笑い芸人を目指す若手が新手のパフォーマンスだったのだろうか?
だったらまだいいよな・・・
冗談でも「ハグしてください」って寄ってったら、
面白いリアクションを取ってくれるとか。
あるいは、歌舞伎町で名物となった「殴られ屋」のバリエーションか。


あの後ずっと、彼は立っていたのだろうか?
誰かハグされた人はいるのだろうか?
次の土日も立っているのだろうか?


人間、いろんな才能があるもんであって、
実は彼は「ハグ」という行為に関して桁外れの才能を持っているのかもしれない。
肩を揉むのにもうまい下手が、ひいては才能があるのと同様に。
ハグされた人を包み込む雰囲気の優しさ。
両腕はピタリとあるべき位置に、適切な力で。
体温の温もりといった要素も必要だ。
いつの日か日本一のハグ名人と称され、癒されたい多くの人々が彼の前で行列をなす。
そんな日が来るのかもしれない。
・・・来てほしいような、来てほしくないような。


それにしてもなんで「無料で」なんだろ?
金を取るつもりだったんだろうか?