首を狩る

1月15日というとどうしても成人の日というイメージがある。
(どうして今日休みじゃないんだ?と残念に思う)


毎年毎年荒れてたり無気力無感動だったりする成人式の話題を耳にするが、
新聞を読んでいたら、財政が破綻した夕張市の成人式は市の補助が全くなく、
市の若者たちが募金を集めて自ら開催したという記事があった。偉いもんである。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070104k0000m040073000c.html


不謹慎な話だが、
首狩族の成人式というか成人の儀式というのはやはり、
他の部族の誰かの首を・・・、というものなのだろうかと思った。


もしも日本が首狩族のまま未曾有の繁栄を遂げた民族であったならば。
成人式はそりゃやっぱ首を持参だよな。
首を狩らないことには大人、一人前とみなしてくれない。
大金持ちは息子・娘の首狩用の・・・を、人身売買する。
貧しい世帯は父母が自らの首を差し出すかもしれない。
抽選で当たった家庭には死刑囚の身柄が割り当てられるが、天文学的倍率となる。
よって、アジアの貧しい地域から、・・・を輸入することになるのだろう。
大家族の少女が家計を助けるために自ら、あるいは両親が苦渋の決断の末に・・・


日本ならばむしろ、首を差し出すことの美徳が語られるのかもしれない。
「そのときあの方は無言で頷き、羽織を脱ぎ捨てると、
 うな垂れて、首をそっと前に差し出しました。
 それこそが私の父への忠義を果たす何よりの手立てであると
 生前再三にわたって語られておりました」


切腹と同じぐらい大事なタームとして、「献首」というのがもてはやされ、
エキゾチック・ジャパンの代名詞となっていたかもしれない。


宮廷では儀式としての「首狩の儀」の作法が
何世代もかけて洗練されつつ継承される。
源氏物語にて光源氏がまだ幼い親王のために・・・、とか
枕草子にて「すさまじきもの。首のたてまつるに・・・」とか。


まあ、もし仮に首狩族だったとしてもいつのまにかそういう習慣はなくなって、
人形の首をはねる → 人形の首を手刀でポンポンと叩く
ぐらいのものにどんどん落ち着いていっただろう。
でも、そうだとしても、
人里離れたとある山奥の村では今もなお首狩の風習があり、
・・・みたいな噂はいつまでたっても絶えることがなかったりする。


それにしても、西欧諸国に首狩の伝統があって、
江戸末期から明治時代にかけての文明開化の時期に首狩もまた流入してきた。
苦心惨憺の末にようやく西欧の習慣として受け入れ、
・・・なんてことにならなくてよかった。


(ここまで書いてるとさすがにくどいね)