no where

ここはどこなのだろう?ということばかり考えている。


住んでいる場所は東京都杉並区で職場は東京都港区だ。
だけどそれは一定の基準に基づいて便宜的に割り当てられただけの名前でしかない。
他の人たちが別のルールでつけた名前が他に無いから、それが使われている。
ただそれだけのことなのかもしれない。
いや、緯度経度といった寄り無味乾燥なマッピングのルールもあるし、
「住所」には採用されたなかったが地域住民が昔から採用している地名もあるだろう。
江戸時代から続いた由緒正しい隠語的地名のようなやつ。
あるいは、「あいつんちの公園の近く」みたいな2・3人しかわからないのも無数にあるはずで。


「住所」と「駅名」が微妙に一致していないことも多々ある。
例えば僕は学生時代中央線の国立駅の北口を出てすぐの場所に住んでいた。
でもこれは住所上は国分寺市の一部だったりする。
そうなってても僕は住んでる場所を国分寺とは言わない。言わなかった。
それはまた別の2駅先であって、
通常「国分寺」と聞いて人がイメージする場所はそっちだからである。
僕の住んでいる場所は国分寺市であっても「国立」だった。


いや、僕が今言いたかったのはそういうことではない。
ただ単純に、「ここはどこなのか?」ということ。
空間の感覚とその広がりはどれだけの意味を持つのか?ということ。


考えていくとパラノイア的になってしまういくつか。


1.
この世界は僕が今視界に見えている範囲までしか実は存在しない。
その周辺はぼやけていて、ラインを超えてしまうとそこから先は無だ。
そして僕が移動するとその都度周辺部分が新しく形作られていく。
もしかしたら目の前の事物もみな、
その瞬間ごとに破壊され再生されているのかもしれない。


2.
僕が今いる場所、歩いて、走って、座って、立っている場所が世界の中心なのか。
裏返すと、世界の中心というものがどこか別の場所にあるというとき、
僕の今いる場所は世界の果て、その最果てなのかもしれない。


3.
僕という存在、それを中心に据えた意識と
空間認識能力との間で不整合が起きたとき、
今、自分がどこにいるのかわからなくなってしまう。理解できなくなる。
何か大きなものから切り離されて、
僕の意識は何事に対してもリアルさを感じ取れなくなる。
外界・他者とインタフェースの取れない、
コミュニケーションを取ることのできない自我は急速に後退していって
やがて崩壊へと至るだろう。
(自我というものは1人きり自分で生み出すものではなく、
 周囲との関係性により編み出されていく)

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ここはどこなんだろう?
って最近思ってばかりで、なにがなんだかよくわからなくなっている。
失見当識」のごく軽い状態のようなもの?
物理的なのではなく、精神的なめまいが時々、ふらっと。
あるような、ないような。


気のせい、なのだと思う。