韓国焼肉ツアー その9

再度自由の家の中をくぐり抜けて
(なんかもう、繰り返しになるけど異次元のトンネルのようだ)
今度は軍事停戦委員会の会議場へ。1階建ての小さな建物。水色に塗られている。
室内のちょうど真ん中を軍事国境線が走っている。
建物脇の地面にそのラインを示す棒が敷かれている。
ここを走り出してまたいでしまうと北朝鮮に亡命したことになる(のだと思われる)。
北朝鮮側の「自由の家」に当たる「板門閣」が向かいに建っている。これもまた大きな建物。
この板門閣を睨みつけ威嚇するようにしてサングラスをした兵士が何人か立っている。
僕ら観光客が近付いても微動だにしない。マネキンのよう。
呼吸さえしていないのでは、と感嘆する。すげーの連発。
とてつもない意志の力と非常な訓練により感情と肉体を制御しているのか。
それとも単なる慣れなのか。
どっちにせよ真似できない。
サングラスをしているのはなぜかと言うと、「敵」に視線を読まれることを避けるため。


この兵士が会議場の中でも、軍事国境線を挟みこむように東西に向かい合って立っている。
椅子とテーブルが並ぶ。
これらのものに一切手を触れてはならないと何度も言われる。
しかし写真を撮るのは自由。またしても撮りまくる。
話しかけたり触れたりしなければ、兵士と一緒に撮ってもよいということで、みんなが写真を撮る。
軍事国境線を越えて、一瞬だけ、ほんのわずかの距離でしかないけど、僕らは北朝鮮側に入る。
足を踏み入れる。
そしてまた、A組・B組に分かれて記念撮影をした。


外に出て、再度自由の家をくぐり抜けて。反対側の外へ。
軍事国境線で警備しているのではない兵士は多少緊張がほどけていて、普通に歩いている。
ブリーフィングのときに説明を受けた(旧)ソ連人の亡命とその銃撃戦の跡地に出る。
小さな記念碑のようなものが建てられていた。


またバスに乗る。
少し走って、「第三警戒所」へ。森に囲まれた小高い丘の上にある。
ここからまた北朝鮮の村を眺める。
ここで同行の兵士より、「気に入った女性に腕章を授与する」の儀式が行われる。
兵役最終日に観光客の案内をした兵士は記念に、↑を行う慣習があるのだそうな。
見事射止められた若い女性が、腕章をもらってた。で、2人並んで写真を撮った。
彼の口元はわずかに微笑んでいた。嬉しそうだった。
「いい儀式だなあ」と思う。ほんわかとしてて。
軍事国境線、38度線の停戦ラインにて警備するエリートの兵士とはいえ、若者は若者なんだよね。
彼がガイドに語って曰く、ここで任務についていると
女性という存在がいかにありがたくて、素晴らしいものであるか、感謝するようになるという。
「スカートを履いているというだけで、全ての女性が美しく見える」とのこと。


バスに乗ってまた移動。
ポプラ事件のあった場所には小さな石碑のようなものが置かれていた。
お墓なのだろう。命日になると、ボニファス大尉の妻が毎年訪問するのだという。
その近くに「帰らざる橋」
ほんと小さな、なんでもない橋。しかし現在は使用されていなくて、
通行止めを表すのか、水色の杭が入口に打たれていた。


最後に、土産物屋みたいなところに入る。
高麗ニンジンや民族衣装をまとった人形、アメリカ軍のTシャツといった一般的な土産物に始まり、
軍事国境線沿いで使用されていた鉄条網の切れ端(買おうかどうかかなり迷った)や
北朝鮮製の酒(買ってくと話題としてかなりいいけど、見るからにまずそうだった・・・)
なんてのがあった。
板門店の絵葉書が2000wと民芸品(ミニチュアのうちわ2つ)が4000wと
板門店 韓国民族分断の現場」という韓国で出版した日本語のガイドブックを買う。
これ読むと、北朝鮮に対するほのかな敵意が感じられて、
「ああ、まだ根深いしこりが残っているのだなあ」ということがわかる。


この土産物屋の周りは広場になっていて、恐らく兵士にとっても娯楽・息抜きの場なのだろう。
スピーカーからはカーペンターズの「Yesterday Once More」が流れていた。


ガイドの方が兵士の1人と話し込んでいる。
普段外に出ることの全くない兵士たちに、
ソウルではこういうのが流行っているとかそういったちょっとしたことを教えてあげると
とても喜ばれるのだそうだ。


元々乗ってきたバスに乗り変えて、胸に着けていた通行証を返して、板門店を後にする。
武装地帯を出た辺りで、ガイドの方がこんなことを語る。
昨年、2006年、サッカーのワールドカップが行われていた頃、
キャンプボニファスの中で韓国人兵士が同僚7人を殺害するという事件が起きた。
年少の兵士が先輩たちを銃殺。
陰湿ないじめがあったのではないかと噂される。
その日先輩たちは試合を見ていて、年少の兵士は試合を見せてもらえなかった。
それが引き金になったようだ。
足を打たれて死亡した兵士の母親は
発見して手当てが早かったならば命が助かったはずだ、と抗議をした。
閉鎖的な環境であったため、救助に向けての初動が遅れ、
実際何がどうだったのか詳細な状況は明らかにされないままとなった。


再度最北端の村へ。(非武装地帯の中の「村」ではなくて)
ここには遊園地があって、ここで休憩。
「自由の橋」というのがある。朝鮮戦争の捕虜たちはこの橋を渡って自由の身となった。
板門店」という歴史的、かつ現在もアクティブな意味を持つ場所の近くに
遊園地だなんていったいどういうことだと年配の方たちは憤慨するらしい。
しかし、今の若者たちはこういう施設がないことには
この近くまでわざわざ来ることがないのが実情のようだ。
バスを降りる。なんだか日本のどっかの地方の
ゆるーーーい(そして儲かってなさそうな)遊園地そのまんま。
橋のたもとでは兵士を3頭身にした人形がお出迎えしてたりする。
でも自由の橋そのものは様々な人の思いを綴った様々な布でフェンスが覆われていて、
悲痛な何かを感じた。なんだか生々しかった。
いや、ほんとこれがなんなのか僕にはわからなくて
もしかしたら神社の絵馬みたいなものだったのかもしれないけど。


日露戦争時代の鉄道が見つかって、
外れの方の建物で修復作業を行っているというので見に行ってみる。
残念ながら中には入れず。
ガラス越しに覗いて見るとものすごくさび付いた車両の残骸のようなものが。


バスに戻る。
この近くに、横田めぐみさんの旦那を拉致し、その後脱北した工作員が住んでいるのだという。
脱北者の話になる。
北朝鮮の人々の死因の多くが、「飢え」
内臓がくっつく病気となる。
病院で働いていたとある女性の体験談:
「病院の中は-30℃にもなるが、暖房設備が何もない。
 手術中に手がかじかむため、患者の切り開いた腹の中に手を入れて温めた」


昼食はソウルに戻る途中の、レストランや民宿の寄り集まっているエリアで。
食堂みたいなところに入って、バイキングだった。
プルコギやキムチ・カクテキに始まり、コチジャンをかけた刺身もあれば
餃子やスパゲティー・ミートソースやピラフまであって、超なんでもあり。
もちろん、プルコギとキムチ以外は「うーん・・・」ってところ。
でも韓国来て初めての本格的な食事だったから張り切ってしまって、
「もうだめ!食えねえ」ってとこまで腹に詰め込んでしまった。
瓶ビール5000wも何本も飲んで。今回の旅行で一番後悔した。
それにしてもバイキングかぁ。
4月末にペルー行ったときもそうだったが、一番当たり外れないってことで仕方ないか。
申し込んだときに昼食ありと書かれているのを見て、
無難にピビンバとか冷麺かねえ?と思ったんだけど。
でも、40人もいたら「これ苦手」ってことでクレームつける人もいるだろうし。
難しいもんだ。


食堂の外にUFOキャッチャーがあって、どうせ小銭使う場所他にないだろうとやってみる。
日本では絶対やらないのに。ライターとかその手のものが景品。
200wで2回やって、ちっともうまくいかず。
その後ソウルではあちこちでUFOキャッチャーを見かけた。
田舎の雑貨屋でアイスを売ってるようなああいう背の低い平べったい台の形をしている。


板門店に同行していたカメラマンが撮った集合写真を3枚貼り付けた
板門店の薄っぺらいガイドブックがバスの中で販売される。
1冊24,000wもして、とても高い。日本円では3,500円なので足元見られてる。
でも、せっかくの記念だしってことで買うことにする。
こういう写真2度と撮れないわけだし。


ソウルに着くまでの間、眠くなって寝て過ごす。
ガイドの方が最後の挨拶で、言う。
「占領の時代があって両国の歴史には悲しいこともあったが、
 私たちは日本人たちに常に感謝の気持ちを持っていることを忘れないでほしい」
「韓国と北朝鮮とが統一される日がいつか来るのだと誰もが思っているのだし、
 その日が来たならば私たちは誇りを持って迎えたい、そう願っている」