意味と認識 その2

先週からずっと言語学のことばかり考えている。
学生時代に戻ってイチからやり直したくなった。
あーもっと勉強しておけばよかった。
というか働き出してからもちょこちょこと継続して興味を持って
何かと目を通しておけばよかった。
あれこれ思い出したのはいいけど、知識のほとんどが錆付いてたよ。


言葉とか記号ってのはどんなふうにして生まれたのか、なんてことを考えた。
言葉の発展の歴史って、発話として文字として、
調べればどっかでわかりそうなもんでおいとくとして
記号の発展の歴史っていかばかりだったのだろうと。
(ま、これもモノの本に書いてそうですが)


絵文字=原初的な記号と考えれば、
記号表現は文字表現よりも成立が早いということになる。
洞窟の壁に牛や馬の絵を描くようなやつ。
こういうのってやむにやまれぬ芸術的衝動に突き動かされてなされたものなのか
それとも暇つぶしのいたずら書きだったのか。興味は尽きない。


こんなことを僕は考えた。
牛の絵でも太陽の絵でも竜巻の絵でもいいが、
ある人が描いて、他の人も似たものを描いたとする。
例えば牛の絵。角を極端に誇張している。
「これって同じ物事を描いてるね」から「同じ意味を共有しているね」への飛躍。
そして「じゃあ角を大きくした牛を描いたら、『牛』だとしよう」という飛躍。
これって人類が知性を発展させていく上でかなりのジャンプボードだったのではないか?
「同じ図柄を描いたら、同じものを指すのだということ」
今の人たちからしてみればしごく当たり前のことなんだけど、
当時の人たちからしてみれば「認識」というものについての一大革命だったのでは。
ここから素朴なシンボルというものが生まれ、象形文字へと発展し、
長い長い時間をかけて現在我々が使用しているような文字というものへと進化していく。


認識・知覚の方法論を一段押し上げるというのは大変なことだ。
その当時多くの人は「Aの描いたこの牛とBの描いたこの牛は似ているね」で終わっていて、
それ以上のことはピンと来なかったに違いない。
一部の天才たちだけが牛の絵をいくつも描いて、「牛」「牛」と叫んでいたのではないか。
ここに概念としての牛が生まれる。
即物的・具体的な目の前の牛ではなく、抽象的な全てをひっくるめた「牛」


今から100年近く前、映画を撮影しそれを上映するという技術が生まれて、
人々の娯楽へと普及し始めたばかりの頃、スクリーンに映る鉄道が向かってくるのを見て、
人々は腰を抜かし、今すぐ逃げないと轢き殺されると慌てふためいたと聞く。
初めて見る動く映像に対して、受容する方法を知らなかったがゆえのこと。


僕なんかだと、生まれて初めて 3-D のメガネをかけたとき、
なんだこりゃ!?と子供心にひどく驚かされたことを思い出す。
例えそれが雑誌の付録の安っぽいおもちゃだったとしても、インパクトの大きさは変わらない。


認識と意味:
具体的な事物から抽象的な概念への関連付けと、その表現方法。
身の回りの事象に対する五感の働かせ方。
ってことを今書いたわけですが、
これって子供たちが生まれて、周りの環境に適応していく中で学んでいくことでもあるんですよね。
独りでに身についていくものもあるだろうし、
大人たちから教えられることで初めて伝わるものもあるだろう。
文化の成熟度というものが、生まれてきた子供たちに何を教えられるか、
何を知らず知らずのうちに教えているのかということで計れるのならば、
今のこの21世紀はとんでもなく高度なんだろうなーと思う。


テクノロジーはなんぼでも発展してなんぼでも新しい製品・サービスが生まれてくるけど、
認識について「何これ!!??」とそれまでにない体験をすることは皆無。
視覚・聴覚がらみはもう出尽くしたのかもね。
組み合わせの仕方とか深め方とかデザインの美しさを競うぐらい。
あるとしたら新しい食感とかそれぐらいかねえ。
オハイオで食べたものすごく冷えたプチプチしたアイスとか。


なんかあるとしたら第六感を具体化するようなものなんじゃないか?