シミュラクラ

もしも自分が誰かの見ている夢の中の人物ならば・・・
という想像が昔からなされてきた。物語にも描かれてきた。
それは神様の見ている夢かもしれないし、人間の見ている夢かもしれない。
この世界は全て、誰かの夢の中でのみ存在する。
その人が目覚めれば消えてなくなる。一睡の夢。


このご時世ならば、
それはコンピューター上のシミュレーションということになるだろう。
どこかの誰かが走らせたプログラムの結果、僕が生み出された。
実はこの僕は0と1のデータの集合体でしかなかった。
喜びや悲しみも、痛みも苦しみも、全てが擬似的に生成されたもの。
Aが与えられたとき、Bという反応を示す。その果てしない積み重ね。


こういうのもまた、物語で描かれてきた。SFでいくつか読んだように思う。
J・P・ホーガンの長編「仮想空間計画」(創元社)であるとか。
P・K・ディックの小説も
コンピューターとかヴァーチャル・リアリティとか言わないものの、
たいがいはそういうことを扱っている。「シミュラクラ」とかそういう用語で。
作品によっては部分的なガジェットとして、または全体的なテーマとして。
リアルなものではない、結果まがいものと判明する人物、あるいは世界そのもの。


顕微鏡の技術がどこまでも発展していって、
原子を構成する物のさらにその先のさらにその先が見えるようになったとき、
そこにあるものは0と1なのかもしれない。
白と黒、□と■みたいな見え方かもしれないが。
理科全般僕弱いんだけど、電子・陽電子ってのは0と1みたいなものか?
(たぶん違う)


僕は日々主体的に生きているようでいて、
その考えること、話すこと、体の動き、全て誰かがこの世界の外で
コンピューターに向かってて操作しているのかもしれない。
あるいは生まれてから死ぬまでの全ての「運命」がプログラミングされていて、
エンターキーが押されて実行されているだけなのかもしれない。
・・・そんなわけはないか。

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いろんなことが山積みになっていて何もかもがめんどくさいとき、
あるいは仕事が何一つうまくいかなくて八方塞のとき、
こういう考え方をしていると物事乗り切りやすくなるだろうか?
どうなんだろう。
やる気を振り絞って立ち向かっていくべきなのはわかっているが、
それと同じだけの時間を「様子見」で過ごしたとしても「どこか」には着地するはずだ。
宿命論者的に「どうせ物事決まっているんですよ」と。
でもそれって受身で後ろ向きだから、
着地する場所もそれなりに後ろ向きな場所ということになる。
魅力ある場所に到達する可能性が、能動的に過ごしたときと比べて小さくなっていく。


あー現実逃避していても何も始まらない。というか終わらない。
現実をしっかりと見据えて1個1個片付けていくだけか。


それにしても僕はどこへと向かっているのだろう。