昨日は事実、今日は存在、明日は希望

10月も後半となってようやく肌寒くなってきた。
寒くて目が覚めることもしばしば。
あの暑かった夏はなんだったのだろう?
幻だったのでは?と思う。
人は時間というものをその瞬間でしか知覚できない。
だから過去なんてあっという間に曖昧なものとなってしまう。
2・3年もすれば「いつだったっけ?あの暑かったの」となるのだろう。


いろんなことが過去として過ぎ去って、
どれ1つとして取り戻すことはできない。
思い出だけ。


最近 JAGATARA ばかり聞いている僕は
「昨日は事実、今日は存在、明日は希望」という歌詞の一節をよく思い出す。
(先日書いた「ニセ予言者ども」の中の「都市生活者の夜」にて、何度も繰り返される)


「過去は事実である。変えようがない」というスタンスと
「過去は思い出である。いくらでも形を変えていく」というスタンスと。
言うなれば前者が記録、後者が記憶。


客観的な出来事と主観的な思いと。
人という生き物は常にその間で宙ぶらりんとなって、どっちつかずのまま生きていく。
そんなことを考えるとき、人類は単なる動物ではないんだなと。
夢を見て、嘘をついて、笑って、欲望を持て余して。
そういうものの全てが、記録と記憶のせめぎ合いの中から生まれてくるように最近の僕は思う。
特に根拠はなく単なる直感として。
事実だけでも思いだけでも、こうはならない。


人類の歴史の中で引き起こされた数々の悲劇的な出来事。
それが後の世代まで語り継がれて、
その解釈をめぐって様々な人たちが様々な主張を行い、
論争が行なわれるのはやはりそういうことに起因する。
100の人間がいたら100の意見があるのと同じく、
100の人間がいたら100の真実がある。
(たった1つの純粋な真実がそこにあったとしても、
 誰かの解釈という行為を経て他の人々へと伝わっていく)


それでも過去は事実なのだと力強く断定するか、しないか。
それは人それぞれなのだろう。
僕は過去というものを幻影だと捉える。
それはいつもかげろうのようにこの手からすり抜けていく。


今日はあんまり眠れなかったので、眠くてとりとめがない。


明日は「希望」なのだろうか?
それもやはりこの手からすり抜けてゆくものだと僕は思う。


希望とはなんであろうか?
少なくともここで歌われていることの意味は?
目の前には無数の選択肢・可能性があって、それを人は選びとるものだということ。
それを希望と呼ぶのか。
それとも、ただ単に1つのありふれた希望なのか。
明日それ自体が輝かしい希望なのか。
あるいは、希望を夢見ることそのものが希望となるのか。


明日が今日になり、その瞬間となってしまうと
何もかもが単なる存在と成り果てる。
そしてその次の瞬間には2度と動かせない過去となる。
そこに希望はあるのだろうか?
それでも人は希望を持つべきなのだろうか?


JAGATARAはそこで「希望」と言い切ったのだから、偉大なのだと思う。


もう1回書くけど、
今日はあんまり眠れなかったので、眠くてとりとめがない。