始まりは、こういうことだったように思う。
ある日ふと、彼女の住んでる町まで出かけた。
携帯の向こうで彼女は今、コインランドリーだと言う。
彼女の住んでいるマンションから歩いて五分の距離。
コンビニがあって、布団屋があって、…すぐに見つかる。
入口が開いていた。
彼女は背もたれのない堅いベンチに座って、
青のジャンパーを着た背中を丸めて、文庫の小説を読んでいた。
音楽は聞いていなかった。珍しく眼鏡をかけていた。
僕が入口に立つとすぐに気付いて、彼女はその顔を上げた。
「そこ、閉めてよ」
言われて僕は引き戸を閉める。レールが軋んで、ジャリッという音がした。
「一人?」
「さっき出てった人が開けたまま行っちゃって。寒くない?」
「閉めればいいのに」
「立つの、めんどくさい」
缶コーヒー飲みたくない?あったかいの。
僕が座ろうとするとそんなことを言う。
僕はまた外に出て、自販機を探す。探そうとすると見つからない。
通りの外れまで歩いていく。
空がよく晴れている。雲一つない。
こんな日に僕はすることもなく、同じようにすることのない彼女の元を訪れる。
だからと言って何があるわけでもない。
何の理由もない行為。
逆にすると、何の行為もない理由。
青空。
僕はジョージアのブラックを彼女に渡す。僕も同じのを飲む。
彼女の隣に座る。缶コーヒーを少しずつ飲む。
動いている洗濯機は彼女の前にある一台きりだった。
煤けた黄緑色のドラム式洗濯機。
中ではピンク色と紺色、灰色の組み合わせがぎこちなくグルグルと回っていた。
彼女の下着。部屋着にしているジャージ。ハンドタオル。
いくつ入っているのだろう?
数え上げようとして、途中でわからなくなって、やめた。
彼女は本を読み続けている。
僕はコーヒーの残りを飲む。
携帯に、日記代わりに今日の気分について書く。
自分に宛ててメールを出す。
すぐにも届くはずがいつまで経っても受信しない。
そんなこともあるか、と思う。
携帯を閉じて、僕は立ち上がる。
「暇?」
本を横に置いて彼女が言う。
「家の洗濯機、壊れちゃってさ。昨日電気屋の人が修理に来たんだけど、
見積もりだけ置いてまた来週直しに来るんだって」
生まれて初めて。コインランドリーなんて。
俺もないよ。
そこから先、会話が続かない。
彼女は本を読むのに戻って、僕はその隣に座り直した。
空になった缶コーヒーを手に取った。冷たくなっている。
僕はその缶をギュッと握り締める。
僕は僕の手のひらの熱を感じる。
何台コインランドリーがあるのか、数えてみる。
一つ一つ指差して、声に出さずに数えて、十五。
そのうち今、日曜の夕方、使われてるのは一台だけ。
町のコインランドリーが利用されないのは景気がいいからなのか、悪いからなのか。
そんなことを考える。
「ごめん、もうすぐ終わるから」と彼女は言う。
本から顔を上げずに言う。
僕は立ち上がって、ここから出て行きたくなった。
このあと僕は、僕と彼女は、彼女の部屋へと向かう。
何かそこにあるもので彼女が料理をつくって、二人で食べる。
テレビを見る。
夜になって、「じゃあ」ってんで部屋を出る。
その前に少しばかり仕事の話をする。
お互い、来週は忙しいのかそうじゃないのか。
忙しい?忙しいよ。
どう?どうって?
いつも通り?え、あぁ、いつも通り。
…携帯が鳴って、メールが届く。
三分か五分前の自分が、書いてよこしたこと。そのとき感じたこと。
いや、誰に宛てたというわけではない。
世の中のどこかに発信した気になって、自分のところに戻ってきたというだけ。
僕は僕が書いたことを読んだ。
そのときの自分が、感じたことを読んだ。
僕は携帯を閉じた。
携帯を手に持ったまま、回転する洗濯機を僕は眺めた。
いつ終わる当てもなく、洗濯機は回り続けていた。
ガタゴトと音を立てて。
僕は目を閉じて、その音を聞いた。