死についてどう思いますか?

最近最も、虚をつかれた言葉。
昨日7日の毎日新聞夕刊の近藤勝重氏のコラムより。


「致死率100%の人間である以上、
 一般的な死を不幸と言うなら、
 ぼくらは不幸に向かって生きていることになる。
 そうなのだろうか。」


誰かに面と向かって「今、不幸ですか?」と聞かれたら僕は
「や、それほどでも」と答える。たぶん即答。
「今、幸福ですか?」と聞かれても
「や、それほどでも」と答えるんだろうけど。


「死についてどう思いますか?」と街頭でテレビ局のインタビューを受けたら、
「いやー、興味はあるのですが・・・」と答える。


わからないから、気になる。
僕たちは時として死にまつわるあれこれに思いをめぐらし、
心奪われ、死という概念を弄ぶ。
人によっては甘美な幻想を抱く。
残酷で、神秘的で、そして全てを解決してくれるような。
その一方で生を退屈なものと捉えたり、くだらないと切り捨てたり。


僕たちはその気になればいとも簡単に人の命を奪える。
同じように僕たちの命はいとも簡単に失われる。
人の命を奪えるのはなぜか?
そこには、人間たちの勝手な幻想があるからだ。


結局のところ、誰にもわからない。
死んでしまった人間が後から教えてくれることもない。
もちろん、死後の世界があるのかどうかもわからない。
(僕自身は「ない」と思う。そこに広がっているのはただ果てしない虚無だけ)


コラムはこんなふうにして結ばれていた。
「結局のところ人生の終わりの幸、不幸は、
 その時が来てみなければわからない、
 というよりその時の心の中にしか
 本当の答えはないのではなかろうか。」


その瞬間までは存在していた「心」というもの。
僕たちはただそれだけをよりどころにして生きていく。
しかしその心というものが幻想を生み出す。
人間とは不可解な生き物である。
いろんなことが矛盾している。


誰もが矛盾を抱えて心ひそかに思い悩み、
そしてある日あっさりと死んでいく。
そのとき何を思い、何を感じたのかは誰にもわからない。
打ち明けることのできないまま、託すことのできないまま、
1人きりで死んでいく。


今ここで地震が起きて、大勢の人間が死んだとしても。
今ここで戦争が起きて、大勢の人間が死んだとしても。
その中で僕も、あなたも、1人きりで死んでいく。
何かを誰かと共有することもないまま。
死という暗闇の中へと戻っていく。
そこには幸も不幸も感じてる暇は無いのだろう。