死はどこにでも転がっている

死はどこにでも転がっている。
今まで生きてこれたのが不思議なぐらいだ。
自らそこに身を投じるのならば方法はいくらでもある。


いかにして死を遠ざけるか、その身を守るか。
それもまた1つの文化のあり方、その発展の仕方の現れとなるのだろう。


死というものを忌み嫌い隠そうとする文化。
死というものを身近に感じ偏在化させる文化。
どちらがいいというものでもない。

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先日、上野の美術館で買った
ムンクの「声/夏の夜」とキリコの「占い師の報酬」の小さなポスターを会社の机に飾る。
(前は映画「パリ、テキサス」とピカソの「ゲルニカ」ないしはアンリ・ルソーの「フラミンゴ」だった)


どちらも孤独な雰囲気に満ち満ちている。
ムンクムンク独特の絶望と不安と孤独が渾然一体となったような違和感を湛え、
キリコはキリコ独特のシュールレアリスムの隙間から垣間見える空白の異様さ。


人はなぜ孤独に魅せられるのだろう?


全ての人がそう、というわけではないか。
ただし、僕のような人は多いのではないかと推測される。
孤独の何たるかを、そのかけらを、心のどこかに持っている人、追い求める人。


孤独というものもまた、その意味合いや向き合い方が
それぞれの文化によって異なるのだと僕は思う。
(それは地域だけではなく、時代によっても大きく左右される。
 死の概念よりも、その境界線を形作る動き・流れは小刻みであるように思う)


うまくは言えないが、
その文化における死の捉え方と孤独の捉え方とは何かしらの相関関係にあるのではないか。
そんな気がしてならない。
今、現時点で根拠や事例は思いつかない。ただ、直観として僕の中にあるだけだ。


もしかしたら19世紀の哲学者が既に答えを出しているのかもしれない。
しかし僕は寡聞にして知らない。

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孤独に魅せられるということは僕が、あなたが、孤独の中にはいないということだ。
孤独というものに憧れて、弄んでるだけ。


本当に孤独の只中にある人は打ちひしがれ、救いを求め、
安易に「孤独」の名を口にはしないだろう。


それは「死」についても言える。

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孤独はどこにでも転がっている。
今まで生きてこれたのが不思議なぐらいだ。
自らそこに身を投じるのならば方法はいくらでもある。