女波

ゆりかもめの駅はそれぞれに異なる文様をモチーフにしたデザインとなっている。
http://www.yurikamome.co.jp/route/pat.php
先週、台場駅のホームでモノレールが来るのを待つ間に案内板を読んだ。
台場駅の文様は「大波」ということになっている。
説明の中に、「日本には波の呼び名が何種類もある」というようなことが書かれていた。
「さざなみ」「夕波」など。
エスキモーの話す言葉には雪を表す名詞が何十種類もあると
学生時代に言語学関係の本を読んだときのことを思い出す。
日本人の感性にとってはそれは波だったか。
まあ波に限らず雨や風など多くのものについて
昔から日本人はこと細かく呼び名を定義してきたわけですが。


例の最後の方に、「女波」「男波」というのが紹介されていた。
読んで字のごとく、イメージどおりに「男波」(おなみ)は強くて高い波を、
「女波」(めなみ)はその合間の弱くて低い波のことを指す。


こういう言葉があるということを僕は知らなかった。
30年以上生きていて、いまだ知らない言葉があるというのは新鮮な驚きだった。
世の中にはもっともっとたくさんの僕の知らない言葉があるのだろう。
そしてその多くは出会うことのないままに終わってしまうのだろう。
僕はそのことに思いを馳せた。


日々の暮らしの中で使うことのない言葉は知らなくてもいいのだろうか?
ってことを考えた。
「女波」ってその典型的なものだ。
文学作品を鑑賞する上でいつか行き逢うかもしれない?
そのためだけに知っておく?
もし文学作品の中でも使用されないような言葉だとしたら?
こんなこと悩んでも仕方ないんだけどね。


お台場で1人、夜ご飯を食べて、帰りのゆりかもめの中で
東京の夜景を眺めながら僕はぼんやりとそんなことを考えていた。
川岸に立ち並ぶビルやマンションの放つ様々な色の明かり。
その向こうに聳え立つ東京タワーが何よりも眩い光で目だっていた。


もっと考える。
日々の暮らしの中で使われることのない言葉は忘れ去られるがままでよいのか?
いや、例えば、日本語の研究をしているような人たち、
国語辞典の編纂に携わっているような人たちが常日頃蒐集しているはずだ。
だけどその手をすり抜けていった言葉が数多くあるはずで、それは永遠に失われてしまった。
そしてそういうような言葉がこれから先いくらでも浮かんでは消えていくのだろう。
寄せては返す波を僕は心の中に思い浮かべる。


ゆりかもめはレインボーブリッジを渡ってクルリと一回転する。
駅に到着する。
ホームに出る。エスカレーターを降りていく。改札でカードをかざす。
そして僕はその日の仕事に戻っていった。