モダンアート

Bob Dylan のベストアルバムの解説にて、
評論家ビル・フラナガンが「Mr.Tambourine Man」について書いていた言葉。
引用します。


「モダンアートをつぎのように形容した人がいる。
 部屋の絵を描く上で、
 もっともすてきな部分が赤い長椅子を描くことであるならば、
 ほかの家具を排除して赤い長椅子だけを描けばよいのではないか?
 そしてその長椅子のいちばんすてきな部分が、
 その色であるならば、
 長椅子を描くのをやめてキャンヴァスを赤く塗ればよいのではないか?」


そうか、と思った。
美術館に現代の絵画を見に行く。
理屈の上では分かったような分からなかったような気分になる。
感覚的に何かを掴んで、「いい!」と思うこともある。
だけどそれを言葉で表現しようとするとうまくいかない。
そもそも何を語ってよいのか分からない。
言葉で語る必要はなくて、作品がただそこにあるだけ。
結局、その存在感だけがあればいいということになる。


抽象的で難解な絵画がなぜ描かれるのか?
なぜもっと分かりやすい主題、分かりやすい手法でコミュニケートしようとしないのか?
鑑賞する第三者と手を取り合おうとしないのか?


話は簡単で、
描きたいものがあって、ただそれを描いたというだけなのだ。
こんなふうに描いてみたかったという素直な気持ちに後押しされて。
僕は僕に、僕はあなたに、このことを伝えたいと思った。
憎しみとか、悲しみとか、こんな気持ちを抱いた。
ただ、それだけのこと。
当たり前といえば当たり前。
だけどそれを当たり前と呼べなくて、小難しい理論を持ち出して解説しようとする。
なぜなんだろう?
どうして、そういうことになってしまったんだろう?


僕にはこの世界はこんなふうに見えた。
世界と言ったらオオゲサ?
少なくとも僕はこの世界に生きていて、目の前の「これ」に目が留まった。
「これ」を描きたいと思った。
・・・それはとても勇気が要ることだ。
自分という人間をさらけ出すのだから。
それが優れた作品ならば見る側にも勇気がいる。
見る側の人間性もさらけ出されるのだから。
自分がこの世界をどんなふうに見ているのか、暴かれるのだから。


「なんだよこれ。赤く塗ってるだけじゃん。オレでも描けるわ」と人は思う。
しかし、24色の絵の具を与えられて赤い長椅子を前にして立たされたとき、
自分の見たままを赤一色だけで描ける人は、
それだけの心の高まりを得られる人は、そうそういない。
「誰かが赤一色だけでキャンヴァス塗りつぶしていたわ」
ってのを思い出して真似してみても、見る人の心を打つことはない。


「この赤を描きたかったから、キャンヴァスいっぱいに描いてみた」
素直にそう言えるような人でありたい。