名前というものについて最近思うことのいくつか


名前というものについて最近思うことのいくつか。


1)
珍しい名前の人の方が、ユニークな「個性」となる傾向が高いのだろうか?


なんとなく、そうなりそうな気がするんだけど特に根拠はない。


逆に、時代や地域の特性により皆似たり寄ったりな名前の集団があった場合、
いい意味では集団としてのまとまりのよさ、
悪い意味では無個性:個性の逸脱を排除して極力丸め込んでいくムードが生まれそうな印象を受ける。


昨今の日本では、子供に対して、一頃からすると奇抜な名前をつける傾向にある。
欧米風の音に当て字をするといったような。
それはやはり個性を重視しているのであり、狭い場所に埋もれさせたくないからなのだと思う。


このとき、名前がユニークだから自動的にその個性もユニークになるのではなく、
両親が他の子供たちの中で(意識的に/無意識的に)際立たせたいと思って日々接するから、
その個性もまたそういう方向性に向かっていくということなのだろう。
とはいえ、「名前が変わってるね」「いい名前だね、面白い名前だね」と周りから言われることが
「ああ、自分は周りの人とは違うんだ」という自覚を生み出すというのもあるだろう。


日本は戦中戦後、高度経済成長の時代と集団での和を尊ぶ傾向にあった。
それが崩れつつある。というか崩れたのか。個を重視する時代にある。
それは名前が先なのか、後なのか。


ユニークな個性の1つと言っていいのかな。30年近く生きてきて思うに、
美人な名前をつけられた女の子は、たいがい美人になると思う。そういう法則が絶対あるはず。
名前負けしてる人って結局見たことがない。
厳密な顔の造作はあれこれあるとしても、ある種の品格というかオーラは必ず身につけている。
「名前負けしたらかわいそうだ」と両親がひよったりすると、普通の子供になってしまうのではないか。
何事も「決め打ち」ってのは大事だと、最近、仕事に限らず人生全般について考える。
世の中言ったもん勝ちである。
名前もまた、つけたもん勝ち。


2)
人は同じ名前の人に対して親近感を持つものなのだろうか?


親近感ではないにしても、良くも悪くも興味/関心が出てくるのではないか。


ただし、このとき、よくある普通の名前の人と、珍しい名前の人とでは受け取り方が異なるはず。
例えば、ダイスケという名前だったりすると生まれてから今に至るまで
ダイスケって人はクラスに必ず他に2・3人いて大人になるにつれなんとも思わなくなってくる。
しかしあんまり見かけない名前だと、こいつどういうやつなんだろうと気になってくるのでは?
自分は割と珍しい名前だという人、そういうことないですか?


僕は「豊彦」という名前だが、同じ名前の人にこれまでの人生で1度しか会ったことがない。
それは会社の入社式の後で、「同じ名前だね」ってことで話が始まった。
(その彼もとっくの昔に辞めているが)


・・・というときに、人は同じ名前の人に親近感や連帯感を持つのだろうか?
何かを、言葉ではうまく言い表せない秘密のようなものを、
共有しているという気持ちがどこかにあったりしないだろうか。
それとも、愛憎入り混じる複雑な気持ちが知らず知らずのうちに忍び寄ってくるのだろうか。


1)の話に絡んでくるが、集団の中での名前がバリエーションに乏しい場合、
自分の名前ってのは単なる組み分けのための識別子に過ぎなくなってくる。
たまたま名前が一緒だった子については班が一緒、違う名前の子たちとは班が違うというような。
無意識的なグルーピングが、それとなく表面化する。


そしてこれまた1)に絡んでくるが、
せっかく親がかなり個性的な名前をつけてくれて、そしてその名前を気に入っているというとき、
漢字まで一緒の人に出会ったりすると「なに、こいつ?」と否定的な気持ちからまずは入ってしまう。
そんなことってないだろうか。


いや、逆に。
自分と同じ名前の人に出会ったことがないというのはそれとなく孤立感・孤独感を生むものなのか。


普通の名前の場合。
小さい女の子だと、「名前がおんなじだね」ってことでまずはそれを取っ掛かりにして
仲良くなりそうなイメージがあるけど、男の子だとそうでもないような。どうなんだろう。


などなど。
今日はここまで。