携帯に情緒機能を

先日何人かで与太話をしていたら、こういう話になった。


「今の若い人はさ、お互い携帯を持っていたらいつでも話ができるじゃん。
 『今どこ?』『じゃ、会おうよ』お手軽すぎね?」


「携帯の普及する前はさー、彼女の家に電話したら親が出てきて困ってしまったり、
 あるいは、親が出るんじゃないかとドキドキしたもんだってことだけど」


「そういうのいいよね。大事なことだよね。そのドキドキ感。
 情緒だよ、情緒。今思いっきりそれ欠けてる。便利さを追求するのもいいけどさ」


「じゃあさ、そういう機能が携帯にあるといいよね。情緒機能」


ってことになったが、さてどういう機能?というと誰も思いつかず。
10回に1回、ロシアンルーレット的に親につながってしまうとか?
その程度。


でもさ、ここに何かブレイクスルーのタネがありそうに思うんだよね。
携帯が普及する。
どこにいてもつながるように基地局が増えるってのは健全な進化である。確かに。
機能もあれこれ洗練されていって無駄がなくなる。
ワンセグだとか10年前には夢のまた夢に思えたこともあっさりと実現された。
基本は全てプラスしていくもの。マイナスするとしても無駄なものの整理だけ。
それだけじゃないんだよね。モノをクリエイトするってのは。
あえてマイナスの発想を実装することで、生まれてくる「間」というもの。
これがこれから先、そういうのが必要なんじゃないか?


例えば、テレビの進化。大型のプラズマテレビ
大きくなってより鮮明に見える。
さらに多くの情報を画面に映し出そうとする。そう、その全てを。
インプットとして100の情報量が片やあったら、その100を全てアウトプットしようとする。
その情報量が120や200になるのなら、それをそのまま増やしていく。


そうじゃなくて。
意図的に、体系的に、情報を欠落させる。
欠けた情報は利用する側に想像/創造させる。
あるいは特定の操作が元から抜けていて、利用する側が不便でもそれを手で補う。
それを行うことによって、生まれてくるもの。逆に見えてくるもの。
その体験、エクスペリエンス。
想像力を刺激する、刺激されることの心地よさ、その共有。


それを例えば情緒と呼ぶ。
言葉に出して言わなくても伝え合うことができて、そこに感情や、ひいては感動が生まれる。
そういう方向に世の中向かうんじゃないか。


かつてはそれが普通のことだった。
しかしテクノロジーの発展と共に全てを言葉に出す、
具体的な情報として現前させずにはいられなくなった。
情報量の多さと正確さのあくなき追求。
それもいつか飽和状態になる。
その揺り戻しがさ、きっと来るんだよ。


そんなわけで携帯の情緒機能。
直接の通話ではなく、メールでもなく。
何か第3の手段がそのうち出てくるのではないかと。
キーワードは「想像力の共有」「感情の共有」
今つながりたい具体的な相手だけではなくて、もしかしたら不特定多数の人間と。
今抱いている思いを、分かち合うのだということ。
例えそれが、アナログな体験のデジタル化に過ぎないとしても。


これから先、携帯の運ぶものが「情報」ではなくなったとき、
携帯はもっと進化するのではないか。