「だいすき」

ちょっと前の事件だが、岡村靖幸覚醒剤の使用により逮捕。
先日2日、東京地方裁判所にて初公判。2年6ヶ月の懲役が求刑される。
3度目の逮捕、2度目の仮釈放の後すぐ密売人に連絡を取り、使用を再開。
理由はプレッシャー。
薬物は24歳の頃から使用していたという・・・
2日の陳述では自作の詩を朗読。
8日今日、判決が出る。
といったところがニュースの要約となる。


残念なことだ。
岡村靖幸を天才と称する人は今でも多い、はず。
僕も天才だと思っている。思っていた、ではなく「思っている」
音楽的才能が人間という枠組みを突き破って持て余している、数少ない本物。
「家庭教師」は僕の中で日本語ロックのベスト1か2。永遠に。
オザケンの「LIFE」と永遠に迷い続ける。


ゴールデンウィークにこれまで見てない DVD を見ようと棚を漁っていたら
岡村靖幸の「LIVE 家庭教師'91」が目に留まる。
そういえばこれ、見てなかった。
というか、あれだけ天才とか言っておきながら実は僕、
映像・動いている岡村靖幸って見たことがなかったわけです。
いかん、と思って即、プレーヤーに突っ込んだ。


すげー・・・
終始踊りまくり。ここまで踊るとは。
さすが和製プリンスと言われるだけある。関係ないか。
もっと楽器の演奏をしてるのかと思ってた。
ギターはずっと弾いて、時々キーボードというような。
とにかくクネクネと踊る。体育会系の男のダンサーまで2人従えて。
いやーなんか変なすごさ。
91年ってのがバブルがまだはじけてなくて、80年代とは地続きで。
そういう感じの、ゴージャスでペラペラの、ファンキー。


そんでまあ知ってる人は知ってますが「家庭教師」という曲では
バックの演奏が続いている中、「内容に沿った」一人芝居を。
セクシーな衣装を、少しずつはだけながら。
着てる服は何曲かで変わって、例えば素肌の上に襟ぐりの大きく開いたセーター。
スポットライトを浴びるステージの上では
天才は何やってもかっこいいんだなあ、何やっても許されるんだなあ。
つくづく、ため息が出る。


で、この時合わせて思ったのが、
20代からってことは恐らくこの頃から薬物を使用してたんじゃないかと。
そんなわけないか。だとしたらこんな溌剌と動けるはずがない。
恐らく、ツアーの後、「家庭教師」から5年と
極端にリリース時期の開いた「禁じられた生きがい」の間のどこかではないか。
「曲は書けるが詩が書けない」
援助交際の時代に、男女関係について何を書いていいか分からなくなった」
当時そういう発言をしていたように思う。
そしてブクブクと(一説ではポテチで)太った。
新人アーティストのプロデュースを中心に音楽業界の仕事を続け、
人前には出なくなった。


世の中のファンたちは天才岡村ちゃんを求め続けたが、
それは結局仮面に過ぎなかった。
愛を求めて、生を求めて、弱々しく震える一人の人間に過ぎなかった。
そういうことになるのか。
それでも彼はファンの声に応えようとして、自滅した。
負の連鎖を断ち切ることができなかった。
そう思うと、なんだか悲しい。


「だいすき」とか「イケナイコトカイ」とか
「カルアミルク」とか「どぉなっちゃってんだよ」とか。
そして、「あの娘ぼくがロングシュートを決めたらどんな顔するだろう」
あの頃の楽曲は今聞いても光り輝いていて、僕は普通に聞いてしまう。
懐かしいからではなく、ただ単純にいい曲で、しかも何年経っても古びてないから。


「家庭教師」には岡村靖幸が求めてやまなかった、
そして(恐らく)得ることができなかった愛と生が渦巻いている。
求道的なまでに求める性急な気持ちが、エロティックなものとして昇華する。
そしてそれは即物的な性欲を扱っているようでいて、照れくさそうに
本当はこの世界にたった一つしかないはずの真実というものを探していた。
そしてそれが音楽を通して見えたような気がした。
愛と生に、手が届きそうになった。
そんな、稀有な瞬間があった。


判決がどう出るか。それをどう受け止めるか。
一人の人間として、この世界に戻って来てほしいと思う。
もうこれ以上、強がらなくてもいいから。