昨日常駐先のことを書いた。
自社じゃないため、朝早く出社することができない。
ビルそのものの出入り口は朝早くと夜遅くと閉まってて、僕らはその開け方を知らない。
だから他の人の出社時間に合わせることになる。
7時まで寝てて、8時半過ぎに到着する。
かつてのように5時に起きたりしない。
夜はみんな残ってて、終電近くまで仕事している。自然と僕もそうなる。
ここ何週間か、飲みに行く予定がなかったら23時か23時半までめいっぱい仕事している。
丸の内線の終電の、何本か前で帰っていることになる。
帰ってきて、午前0時過ぎ。
1時に寝て、7時に起きるサイクルが定着した。
日によってはウイスキーの水割りをグラスに一杯だけ飲む。
飲みながらぼんやりする。ネットを見ていたり。CDで曲をいくつか聞いたり。
これといったことをすることもなく、眠る。
僕は絶対、朝方なのだと思っていた。
実はそんなことはなく、いとも簡単に夜型になった。というか適応した。
前は5時になると目覚ましが鳴る前に目が覚めた。今はそういうこともない。
仕事が大変で疲れてるから起きれない、というだけなんだろうけど。
22時に帰ってきて、23時に寝る生活と
午前0時に帰ってきて、午前1時に寝る生活と。
その間に1時間あったとしても、その1時間はどことなくなんとなく性質が違う。
22時に過ごす時間は、夜と呼ばれるもののかかわりが浅く、
楽しみ、寄り添ってないように感じられる。
「夜」は絶えず深まっていくものであって、
遅くなればなるほど夜という名の時間が濃密になっていく。
闇が果てしなく広がり、それを覆そうとする人工的な光がどんどん色褪せていく。
はっきりとした境目はやはり午前0時という時間にあって、
それより前はまだ、夜の始まりに過ぎない。
終電がなくなってどこへも移動できなくなってからが本当の夜なのだ。
1人きりになって、あるいは2人きりになって。
あるいは、同じようにはぐれたもの同士が寄り集まって。
眠りにつく平穏な、何の変哲もないただ過ぎ去っていくだけの夜があって、
疲れ切った体を奮い立たせて、
ひたすら朝を待たなくてはならない砂を噛むような夜があって。
ときには奇跡のような、享楽的な、永遠のようで一瞬にして消えていく夜もあって。
午前0時を過ぎてウィスキーを傾けながら音楽を聞くとき、
曲の表情がいつもと異なるように感じられる。
夜の世界へとそのまま連なっていくような。
だけど、「明日もまた仕事だ」と振り捨てるようにして眠りにつく。
夜型の人がとことん夜型になるのが分かるような気がした。
それは昼間とは違う、ある種の世界の住人になることなのだ。
そしてそれは意外と簡単なことなのだ。
平凡な世界と隣り合わせになって存在していた、幻想。
終わりのない夢。まどろみ。
夜の抱える闇が最も深くまで届くとき、僕たちは永遠の子供になる。
夜には、そういう瞬間がある。