人が死ぬということ

金曜、会社の人たちと猿島に遊びに行って、バーベキューを楽しんで帰ってくる。
留守電が入っていたので再生した。
母からだった。
親戚の叔母さんが亡くなったことを伝えていた。
新聞のお悔やみの欄を見たら載っていた。命日は8月末。
短い内容で淡々と、力無く、冷静に事実を伝える母の声。
夜遅く。遊び疲れていた僕は母に電話を掛けることはせずに、眠った。


遠縁だったとはいえ、僕のことを可愛がってくれた人のことだ。
僕はとるものもとりあえず次の日の朝、青森に帰るべきだったのかもしれない。
でも、そうしなかった。
土曜は予定が既にあって、その次の週、青森に帰るつもりで新幹線を予約していた。
言葉は悪いが、予定が崩れることを億劫に思った。
翌朝、母に電話してみる。全て式は済んでしまっているという。
それを聞いてほっとした。
「不可抗力だ」そんなことを考えている自分がいる。
生きている人間は身勝手なものであって、うまくは言えないが、
人が死ぬっていうのはそういうものなんだろうな、と思った。


もう何年も会っていなかった。
8月中頃、母から電話が掛かって来て、叔母さんが入院していることを知った。
周りの人に事情を聞いた母が、でもそんなひどくはなさそうと言うのを聞いて、
見舞いには行こう、とはいえ8月は仕事が忙しいから9月の連休でいいだろう。
そう思ってしまった。
そんなふうに思って日々過ごしているうちに、人はあっさりと死んでしまう。


この週末に帰ったときに、墓参りに行くことで決まる。
その後で町に出て、××ホテルに新しくできた××でお昼を食べましょうと母は言う。
それとこれとは別次元の話のようだ。
僕もまた「ああ、じゃあ、それで」と言っている。
冷たいのではない。故人を偲ぶ気持ちがない。軽んじているのではない。
生きている人間の日常生活とはただ単にそういうものなのだ。
日々は何も無かったかのように流れていく。
流れていこうとする。
そして僕らはその流れの中をぼんやりと漂っている。


墓参りの時には、いろんなこと、謝ろうと思う。