「ミニー&モスコウィッツ」

日曜の昼、ジョン・カサヴェテス監督の「ミニー&モスコウィッツ」を見た。
つい最近、なぜか突然DVD化されて即買い。どうして、今なんだろう?
同時期の「ハズバンズ」もDVD化されるか、と思いきやそれはなく。
「&モスコウィッツ」だけだった。


シーモア・カッセル扮する、駐車場係で食っている長髪に髭のさえない貧しい男が
たまたま出会ったジーナ・ローランズ扮する美術館に勤める、割といい暮らしの女性に恋をして、
とにかく惚れたんだからしょうがないないじゃないかと強引に迫っているうちに
ジーナ・ローランズの方もまんざらではなくなって結婚に至るという。
コメディと言えばコメディなんだけど、カサヴェテス作品なのでちっとも笑えない。
酔っ払ったり喚いたり、生きていくうちに様々な問題を抱えるに至った市井の人々の
演劇的な長回しによる独白が例によって緊張感たっぷりに続く。
笑えるわけがない。結局また「うーむ」と腕組みして見ることになった。


映画史上に残る名作でもなんでもないし、カサヴェテスの映画としては比較的影が薄い。
それでもやはりしっかりと食い入って見てしまった。
まだ見てないカサヴェテス作品があった、それを今見ているという幸福感に支えられて。
むしろ、こんな何の変哲もない休日の午後に見てしまっていいのだろうかとすら思ってしまった。
(「ハズバンズ」は劇場で見たし、「Too Late Blues」は奇跡的にレンタルで見つけ、
 「ラブ・ストリームス」はダビングしたビデオを後輩が持ってて、
 これであと見てないのは「愛の奇跡」だけとなった)


出会って10年以上。いまだ僕を魅了してやまない。
というか、ジョン・カサヴェテスに出会って、惹きつけられなかった人というのを僕は知らない。
みんな好きになるよね。硬派な映画ファンならば。
無骨で、不器用で、男くさい映画。
「人間を描きたい」「映画を撮りたい」
その真摯な思いがダイレクトに伝わってくるところにノックアウトされる。
名だたる巨匠と比べたらテクニック的にうまいわけではないし、芸術的でもない。
でもカサヴェテスとしか呼びようのない裏寂れた雰囲気がフィルムの隅々に漲っていて
(漂っていて、ではない)
耐え難い余韻を残す。
この人にしかありえない、人間の描き方。
映画の撮り方。


決してうまくならなかった。
映画というものをどう撮っていいのか分からなかったのではないかと思う。
プロダクション的な意味ではなくて、映画という表現の形態として。
「こんなんじゃないだろう」「こうじゃないだろう」そういうもどかしさばかりが伝わってくる。
それがそのまま人間という生き物、愛したり憎んだり浮かれたり戸惑ったりする
愚かで悲しい生き物たちへの気持ちへと投影される。
「人間=映画」
この図式が最もダイレクトだった。
もっと割り切ったら、映画なんていくらでもうまくなれるんだろうけどね。
芸術的な大監督とされる人たちってそういうところを超越することで、そちら側に渡ることができた。
図式なんてものに捕らわれない。
カサヴェテスは映画界における一市民としてこちら側にとどまり続けて、もがき続けた。
自分の描きたいものをあくまでありきたりな映画の言語で描こうとした。
自らが言語となるのではなく。自らが芸術になるのではなく。
映画になるのではなく、映画と向かい合う。
その不器用さが、何よりも胸を打つ。

    • -

蛇足ながら。
最後にミニーとモスコウィッツが結婚することになって
2人の母親をレストランに招いて食事するんだけど、
配役を見る限りジョン・カサヴェテスの母親とジーナ・ローランズの母親みたいね。
私生活でもパートナーだった2人。
結婚することになって、俳優同士の2人にはお金が無くて、
それでも家族を呼んで食事するみたいな機会はきっとあったんだろうな。
それがそのままこのシーンへとつながっていってるのではないか。
結婚する相手のことをよく言おうとしても、母親の方でボロをだしてしまったり。
そういう感じだったんじゃないだろうか。

    • -

「こわれゆく女」「オープニング・ナイト」そして「グロリア」
ジーナ・ローランズ主演のカサヴェテス作品を久々に見返したくなった。


それにしても「ラブ・ストリームス」はいつになったらDVD化されるのだろう。