言葉について語る言葉

イシス編集学校の課題の中に、こういうのがあった。

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■以下についてオーケストラっぽいものを挙げてください。


3.オーケストラっぽいファッション
4.オーケストラっぽい植物

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それまでの課題はスイスイこなしていた僕であるが、今回は困った。
ファッションとか植物のこと、よく知らない。
なので「オーケストラっぽい」と言われても、
それ以前にファッションや植物を語る言葉がない。語彙がない。
なんとか思いついて回答したけど、冷や汗ものだった。


こんなことを考えた。
ファッションや植物に対して、これといって興味がない。
だから目の前には常にファッションや植物に該当するものが溢れているのに、
頭脳まで辿り着かず素通り。
分類しない。
未分化の「ファッション」や「植物」といったモヤッとしたままにとどまっている。
いや、そりゃファッションといったときに
リーバイスジーンズからコム・デ・ギャルソン川久保玲まで思いつく単語はそれなりにそりゃあるよ。
でも、特に強い興味が無いから、頭の中で整理されないんですね。ただ、バラバラに浮かんでるだけ。
そうなるとどうなるか?
その整理された知識・情報の体系の中で物事を考えてみようとしないんですね。
つまり、ファッションを比喩にして語ってみるとか。
何かを見て、ああ、あれって○○っぽいな、とか。
尺度や基準というのもそう。
そういうのがあると、「オーケストラっぽいファッション?ああ、あれね」とすぐ思い浮かぶ。
頭の中にインデックスができている。


映画や音楽が好きでたまらない僕は思考回路の枠組みの中にしっかりと映画や音楽が入り込んでいる。
古今東西の名作といったカタログ情報だけでなく、
そんなたいしたものじゃないけど、映画的文法・音楽的構造のようなもの。
そしてそれが無意識のうちに言語化されている。
だから、例え拙いものだったとしても、僕は僕なりの言葉で映画や音楽について語ることができる。
ファッションや雑誌についてはそれができない。
僕の頭の中には「映画」や「音楽」というものが持つ、手触り、雰囲気、イメージが根底にあって、
価値判断の基準として日常生活の中でも無意識的に利用している。


人間という生き物はなんらかの形で、意識的に・無意識的に、言葉を道具として物事を考えている。
自分の中でインデックスが出来ていて道具として使いこなせる言葉と、そうじゃない言葉がある。
「言葉について語る言葉」と、「単なる単語」と言い換えてもいいかもしれない。


前者がどれだけ豊かか?というのがその人の人生の「知的な面白さ」を左右するように思う。
後者をどれだけ詰め込んだところで、たいした役には立たない。


何をどうしたら、未分化の「単なる単語」の群れが活きた知識の体系へと集約されていくのか。


(僕はそのプロセスを、整理の仕方を知りたくて、イシス編集学校の門を叩いた。
 ものすごく大雑把に言うならばそのプロセスそのものが編集ってことになるんだろうけど。
 僕は今その入口を覗いていて、その奥深さに圧倒されている)


この世界の見方がほんのちょっとであれ変わるのだろうし、
思いも掛けないところで選択肢が増えていく。
人生はそうなった方が絶対楽しい。
刹那的な快楽に身を委ねるだけではなく、知的な興奮を求めて氾濫する情報の渦の中をさ迷い歩く。
その中を歩くためのコンパスを自分の中に見出して、使い込んで、精度を上げていくべきなのだということ。