「型」について考える

引き続き、パブロ・カザルスについて。
その芸術的高みをどう捉えるべきか?


編集学校であれこれ学んでいるせいか、「型」について考えた。
クラシックという文脈の中でチェロ演奏の「型」を習得する。
果てしなく練習して行く中でその「型」を自分のものにする。極める。
その次の段階はその「型」を崩していくようになる。
今の自分はそれまでの「型」に収まらなくなってきた。
自由に作り変えたくなった。
形がなくなるまで粉々にする。時として否定もする。
しかしそこには「型」がやはり色濃く残っていて、その残像が常に照射している。
模索していくうちに徐々に新しい「型」が生まれる。形作られていく。
表現は次の段階へと到達している。
このサイクルを一通り経験して初めて、世に出せるだけの芸術になっている。
そしてまた、その型を超え出ようとする。


型の内側へと向かう力、外側へと向かう力。
その繰り返し。
どんな芸術だってそうなのだと思う。


例えば、ストーンズについて考える。
Blues, R&B の模倣から始まって、まずはそれを自分らなりに演奏できるようになる。
最初の何枚かのアルバムにその過程が見える。
「Aftermath」の頃に型は完成し、既にしてそれを崩していく過程が見え始めていく。
「There Satanic Majesties」の頃が迷いの時期であれこれいろんなものに手を出して、
それは「Beggars Banquet」で出口を見出し、
ここでようやく唯一無二な存在としてのストーンズが完成したわけだ。
そして「Let It Bleed」「Sticky Fingers」「Exile on Main St.」という高みへと連なり、
「山羊の頭のスープ」「IT's Only Rock'n'Roll」で型をまた変え始め、
「Black and Blue」を経て、
「Some Girls」にて今のストーンズへとつながるスタイルが確立される。
その後は「型」を守り続け、拡大させていくことで
ビッグ・ビジネスとさせる道をストーンズは選んだ。
それを人は円熟と呼ぶ。


生きるという行為にも「型」はあるはずだ。
勉強の仕方だってそうだし、料理や車の運転にもそれは見出せる。
続けていく中でうまくなって、アレンジを加えて、悩んで、「これだ!」というものを見出して。
そしてそれを長い年月続けて、誰かにそれを教えて。
(その変遷の行為の関係付け・意味づけを、僕の通う学校では「編集」と呼ぶ)


その人の生きるという行為そのものに「型」がなくなってしまったならば、
「どう生きるのか?」という問いかけを自らに対して課すことが無くなったならば、
その人にとって人生というものは倦み疲れた日々の残骸に過ぎない。
ただ誰かによって、何かによって生かされているだけの人生。
そうあってはならない。
決して、そうあってはならない。