「さらば箱舟」

今年はそろそろきちんと寺山修司と向き合おうと思った。
学生時代から何度も、手を出してみようとしては躊躇するというのを繰り返した。
どこを取っ掛かりにしていいのかよく分からない。
演劇なのか、映画なのか、詩集なのか。名言集の類もいくつか出ている。
やはり、「書を捨てよ、町へ出よう」なのか。
もしかしたら、第三者による評伝や評論から入ったほうが良いのかもしれない。
僕が競馬好きだったら、そこがきっかけになったのかも。
大学の寮の同級生に、そういう奴がいた。


僕としては何よりも青森と寺山修司との関係性に興味があって。
あの独特の視覚世界の原風景は津軽にあるのか、
それとも寺山修司という人間にとって普遍的なものだったのか。
そこのところを語る何かがあったのならば、そこを軸に入り込んでいただろう。
残念ながら、今のところ出会っていない。


母校の先輩に当たる。
でも、図書館でも寺山修司のコーナーって小さかったなあ。
誰かクラスメイトが話題にするということもなかった。
完全に忘れられていた。
その頃の僕は寺山修司に対して
暗くてグロテスクで回顧的なものというイメージしか持ってなくて、
正面切って興味を持つことに二の足を踏んだ。


ということで、僕ならまずは映画だろうということで「さらば箱舟」のDVDを買ってみた。
土曜の昼に見た。
土曜の昼という緊張感のない時間帯は寺山修司に接するには最も不適切なようで、
それゆえに最も適切なようにも思えた。


どっかの古い村が舞台。
本家の少年が村中の柱時計を海辺に埋めるのが出だしで、とか、
成長した後に分家の男に殺されると幽霊となって現われて、とか、
その分家の男は次第に物の名前を忘れていって、「甕」や「鍋」など
身の回りのありとあらゆるものに半紙に墨で名前を書いて貼り付けていって、とか。
そういうふうに要約は可能だけど、何の意味もない。
話はあってないようなもの。
映像化された寺山ワールドのイメージの羅列。
その映像も「旧家の黒い壁に無数の柱時計が括り付けられ」と言葉にするのはできるけど、
何も伝わらない。伝えた気にならない。
でも、一目見た瞬間、「ああ、寺山修司だ」と分かるという。
独特の色彩と、オブジェの配置と、時間の流れ方と。
これを言葉で語るのはものすごく難しい。
いきなり昭和から始まってそれ以前の歴史からは切り離された、
人工的な模造品に流れる地下水脈的な情緒。
そのグロテスクなノスタルジア
今の僕にはそうとしか呼びようがない。
やはり寺山修司見世物小屋なのか。
その記憶に始まり、その再構築の終焉的過程を演じ切る。


映画としては、「田園に死す」の方が面白いのだろうか?


母校の図書館での扱いは、今もなお変わりないのだろうか?
青森駅前 AUGA 内の Village Vanguardではそれなりに大きくスペースを取っていたように思う。
価値は逆転している。
いや、21世紀の今、寺山修司は単なるサブカルチャーに過ぎないのか。


そういえば、Stereolabの96年のアルバム「Emperor Tomato Ketchup」
これってもちろん、「トマトケチャップ皇帝」から取られてるんですよね。