「くらやみの速さはどれくらい」

先週、「くらやみの速さはどれくらい」(エリザベス・ムーン)を読み終えた。
2003年のネビュラ賞長編部門を受賞している。
http://www.amazon.co.jp/dp/4150116938/


自閉症が幼児のうちに治療可能となった近未来のアメリカ。
30台半ばの主人公ルウは治療に間に合わなかった最後の世代の人間で、
日々の生活を健常者と同じように送っている。
水曜の夜はフェンシングの稽古に出かけ、金曜の夜は洗濯、日曜の朝は教会へと向かう。
あれこれズレた振る舞いはするものの、つつましく暮らしていけている。
だけど他人の感情というものが分からない。
それがどういうものなのか感覚的にも理論的にも捉えることができない。
フェンシングのサークルで出会う女性に好意を抱くものの、
それが世間一般的に恋と呼ばれるものだということには、決して気づかない。


数学とパターン認識に関して並外れた能力を持っている彼は
大手製薬会社の研究所で同じような仲間たちと働いている。
成人後であっても自閉症を完治させる新しい治療方法が開発され、
会社は彼らに対して実験的にその手術を受けさせようとする。


ルウは自閉症である自分に何の不満も抱いていない。
むしろ誇りにすら思っている。
いくつか自分にはできない、理解できないことはあっても、
毎日職場に通うために車の運転をしているし、フェンシングの試合にだって出られた。
彼は治療を受けるべきかどうか迷う。
彼の個性を特徴付けているのは自閉症そのものであって、
それがなくなったときに自分は全く別のものとなってしまうのではないか?
これまでに築き上げてきたものや大切にしてきたものを失くしてしまうのではないか?
しかし、自閉症のままでいるならば自分にできることは限られている。
彼はそれが自分にとっての大きな制限となっていることもまた、よく知っている。
例えば、大学に通ってさらに知識を深めたい。
そしてその知識が人間にとってどういう意味を持つのか考えてみたい。
自閉症の自分にとって知識は知識に過ぎなくて、それ以上の何ものでもない。
そんな自分を、打ち破りたい。


周りの人たちは今のルウを好いていて、手術は受けないほうがよいと薦めるが、
ルウは手術を受けることを選んだ。
その彼を待ち受けていたものとは・・・?

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「21世紀版の『アルジャーノンに花束を』」と称されていて、
内容からすればまさにその通りなんだけど、
もちろん読んだことなくても十分楽しめる。


読んだことあると、両者のストーリー展開を常に頭の片隅で比較し続けることになる。
「くらやみの速さはどれくらい」が期待をいい意味で常に裏切っていくので
そこのところが読書的快感になるんですね。


アルジャーノンに花束を」は中学校のときに読んで、泣いちゃったな。
最後のあのセリフに。
あんな切ない物語、他にない。
言葉で書かれた作品であそこまで泣かされたのって、ないよ、もう。


「くらやみの速さはどれくらい」はそこまでの分かりやすい感動はないんだけど、
ルウという聡明な人物の、純粋すぎるぐらい純粋で誠実な問いかけが胸を打つ。

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ルウはいつも、暗闇の速さがどれくらいなのか、
それは光よりも速いのかどうかについて思いを巡らせている。


ある人は、暗闇とは光がない、
「無」の状態なのだからそもそもスピードなんてものはないと言う。
しかしルウは、光がそこに届くということは、
暗闇が先行してその場に広がっているという状況が必要なのではないか、
つまり、暗闇の方が光よりも速いのではないかと考える。


結局はどういうことなのか?
思索の果てにルウはルウなりの結論を見出し、
そしてそのことが手術を受けるという決断へとつながっていく。


果たして、くらやみの速さはどれくらいなのだろうか?